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今泉力哉『窓辺にて』文筆家同士の異質なコミュニケーションと浮ついた人間関係の歪みに悩む稲垣吾郎。映画感想文

 びっくりするほどいい映画。素晴らしすぎて感想を綴らない訳にいかないなと思う程に良かった。パフェに刺さった奥まで届く柄の長いスプーンで心をこちょこちょ掻き回されてるこそばゆさの二時間半だった。稲垣吾郎が観察する世界はいつだって文字へ変換されて心に刻まれてるんだろう。彼の朴訥な雰囲気は無能のそれとは全く違う。観察して面白がって無邪気に笑う歳を重ねた少年の様に見えて、実は全て頭の中の机に並べられた事実をじっと見つめていて、その現実に悲しんでいる。でも、そんな風に全く見えない。悲しんでない時は悲しんでないと言うし、楽しい時は楽しいと言うんだろう。だから、悩んでいる時に悩んでいる事を隠す事が出来ない不器用さに惹かれるのだろう。そんな主人公が愛おしい映画だった。

 象徴的なワードやシーンが呼応する様に散りばめられていて美しい。ライティングや服飾装飾が煌めいて見えるのは彼等の生活水準の高さからくるものではなくて、パズルピースを集める稲垣吾郎の無垢な視点を通して物語を感じ取っているからなのだと思う。どんなに素晴らしい家に住んでいようが社会的名声を得ようが悩みは一本調子に描かれる。好きになる事は喜怒哀楽を表出してなんぼ。みたいな価値基準。登場人物達はその視座から逃れられていないのに反比例して裏切りを続けている。怒りを露わにする。自己矛盾に気づかず人に喜怒哀楽を要求している。でも、その中でその頸木から逃れているのは、稲垣吾郎と玉城ティナの二人。だから、呼応して二人でパフェをつつく。おじさんと少女。側から見れば怪しい睦まじい光景も、頸木から逃れ世界を文字で観測している小説家のコミュニケーションとして映る。二人は何となく理解している感じがジワジワと伝わって来るのが上手い。玉城ティナは稲垣吾郎を導く様に道先に石を置いていくけれど、彼が何も感じずにそれを拾いながら後ろをついて来る事を楽しんで慈しんでいる。多分、彼の悩みなんか興味なくて、それこそ小説にも文字にも興味なくて、主人公を観察して面白がっている少女。その少女を見て主人公も面白がっている。だから、「彼女は書き続けると思う」と躊躇いなく言ってみせたんだろう。絆の芽生えを理解して後ろをついて廻ってきたんだから。窓ガラス越しに気にし合う二人。恋人同士でない視線はカーテン一枚で区切られた仕切りをつつき合って戯れ合うカップルみたいに愛らしく見える瞬間がある。公園のシーンなんてカップルみたいに見える。でも、二人とも知っているのは絆。文字書きの絆で繋がっているという事実だけ。だから、無邪気に心のじゃれあいを楽しんで、彼女は紙の束にその光景を刻み込む“小説家”なのだろう。それを稲垣吾郎も知っている。玉城ティナはそんな主人公が好きだ。

 若葉竜也は同監督作品の「愛がなんだ」でも素晴らしかった。原作では蔑ろにされたキャラクターに意味が齎されたのも彼の犬みたいな表情の賜物だと思っている。窓辺にての彼はそれよりももっと現実主義者でありながら苦しみを隠さない青年の色が窺える。何の躊躇いもなく不倫をする。女優の彼女を弄んで楽しそうにしている。自分の才能の乏しさに悩み苦しんで救いを求めて彼女にちょっかいを出す。そんな自分の愚かさを知っているのかもしれないけれど、心を保つ為には彼女を抱く事で保たれる関係性があるのだと薄く捉えているのかもしれない。全て失って後悔する直前の戯れ。その無邪気さが稲垣吾郎も好きなんだろう。彼に悩みを打ち明ける事を躊躇っていたのもその為かもしれない。本質。でも、面白いのは知っていた。面白いと捉えて距離を詰めていい関係ではない事も。若葉竜也はプレッシャーと愛情の天秤で悩んでいる。そんな彼は一般的にはクズなんだろう。でも、魅力的だ。

 中村ゆりと穂志もえかは似た悩みを抱えている。物語上一番遠い存在な筈なのに共通する悩みを抱える二人。欠落の埋め合わせに罪悪を感じながら肉体行為の意味を信じ、捧げながら彼の一部を貰う。残滓を受け取って微笑んでみせる。其れを見ると彼は彼女を一層好きになる。躊躇いが懊悩が表出すると途轍もなく愛おしく女性らしく感じる。そうやって迷ってるフリをしながら彼の一部を大事にしている。稲垣吾郎から何を貰ったの?それが物語のテーマの一つだけれど、それはあまり関係ないと思ってしまった。中村ゆりにとって彼の存在が何なのかあまり意味は無いのかも知れない。一部をくれない彼とくれる彼。劇中を観てると淡白すぎて浮つくのも分かる気分になるけど、多分、というか願望だけど、意外と普通の夫婦だったんだと思う。彼女が普通を嫌っているだけで稲垣吾郎はそれで良かっただけで。文字書きとしての絆が生まれていない事は主人公も知っていたのかもしれないけれど。ボタンを付け直す彼の姿は印象的だった。行動と言動がリンクしている瞬間。彼の残滓を彼が元に戻す事は良くないよと冷静に言ってみせる。自分の行為の愚かさを知っていたかの様に。でも、何も感じない。自分の解釈は佐々木詩音に繋がる。

 志田未来は劇中一番の常識人だ。人の家に上がり込んで取り留めのない相談を持ち込む男を容赦なく帰らせて、その後に理由を話す。橋渡ししてみせて、しっかりと自分の気持ちを表明する。不安も痛みも現して、境界線張りながら主人公と大人のコミュニケーションをとってみせる。彼女は作中で一番浮いている存在。競争の輪に存在していない人。でも、そんな彼女と結婚した若葉竜也は理解できる。彼女は一緒に戦ってくれそうな強さを持っているのが分かる。それが切なくも感じる。だから、稲垣吾郎は楽しく見守る事が出来ない。面白がる対象にしてはいけないからだと思う。でも、それでいい。彼女の強かさは主人公の不安を杞憂に終わらせるのだから。

 対照的な夫婦像に感じさせる要因。佐々木詩音。彼は作中一番弱く囚われた存在。タクシーシーンの馬とパチンコ。馬肉と競馬の例えは彼を現している。稲垣吾郎は面白いと言った。「僕には必要ない物語かな」そう言ってみせた時と違う無邪気さが声のトーンに乗ったシーン。怒りが無いようで言葉に怒りは乗っていないのか?と思うシーンとの連携。でも、囚われの感覚は文筆家のコミュニケーションの共通性に理解できるのかもしれない。書く事でしか生きる意味を見出せない哀しい存在として彼を捉えているのだとすると、佐々木詩音は不憫でならない。情けをかけられているようなものだから。この辺の解釈は自分でも歪んでると思う。妻が慰みものになっているのを彼の為と黙って見過ごす愚かさを持っているとは到底思えない。単純に愛がなくなった自分に失望してその事で頭が支配されただけだと思う。佐々木詩音は彼女に支配されている。それを知っていながら求め愚かな自分を卑下する様に駄文を書き並べていると思っている。書けば書くほど愚かになっていく自分。彼女と彼の間にあるのが小説だから書いているのか。稲垣吾郎はそんな風に思っていないだろうな。茶封筒を渡された時の動揺のなさを見ると想像がついていたのかもしれないから。もしかたら、自分と同じ道を辿る同士の様に感じていたのかもしれない。文筆家のコミュニケーション。怒りがない違和感を表した素晴らしいシーンだと思った。稲垣吾郎は酢いも甘いも通り過ぎたオジサンなのだから。彼を少年扱いしていたのかもしれない。けれど、彼の言葉を聞いて躊躇いなく素晴らしい作品だろうと言った。佐々木詩音はどう思っただろう?歯痒いのかもしれない。目の前に座った才能に届かない自分の弱さに。それを素晴らしいと言う主人公。この時に漸く大人として。小説家として。彼と初めて向き合ったのかもしれない。コーヒーを啜りながら元に戻らない不可逆な変化を悟ったシーンだったのかもしれない。彼が飛び掛かって千切れたボタンを直したシーンに呼応する様に。

 玉城ティナは二人のモデルに主人公を会わせる。その一人が倉悠貴。とても興味深く面白い少年。蒼い感性を持った跳ね返りの純粋バカ。彼女は面白がる。彼のバイクに跨る主人公は同じ水準に乗せられて馬鹿らしく清々しく映る。彼が作品の要所で姿を現すのが理解できる。直情で苛立つとその辺を蹴飛ばして強がるけどおっかなさが微塵もない。彼女の作品には彼の影響が色濃く反映されているのだろう。彼に会わせた後に二度と会うなと言われておきながら普通に呼び出す玉城ティナの子供っぽさは彼譲りなのかもしれない。本当に好きなのかもしれないし。甘酸っぱい青春を憧れているだけかもしれない。でも、彼女がその後に会わせる山荘の斎藤陽一郎は翳の世界で生きている。対照的だ。厭世的な彼は稲垣吾郎の感性とは合わない。だから、彼に打ち明ける。それって他人だから話せるってことでしょう?もっと身近な人に相談した方がいいと言う彼。稲垣吾郎は尤もだと思いながらも違和感が頭に張り付いたと思う。彼は世俗から離れて競争を辞めて人との繋がりを極力絶っているのに、そんな彼から尤もな事を言われて背筋を伸ばされた。背筋が伸びた彼を彼女は窓越しに見つめる。何故会わせたんだろう?と、思っているだろうなって。互いが同じ様な事を感じているシーン。彼女に弄ばれるシーン。でも、真理のシーン。尤もな事を言う人間が一番愛情のセカイから遠い場所に住んでいるという不思議。主人公はその為に会わせたのかな?と思ったかもしれないし、でも、彼女の戯れに付き合わされたのかもしれないとも思ったのかも。主人公の運命は此処で決まった気がする。彼女の思惑に乗せられて運命の川に身を委ねたシーン。観察家としての興味が上回ってしまったシーンなのかもしれない。

 玉城ティナ。この物語のヒロインは彼女。でも、主人公でもあるんだなこれが。彼女と出会わなかったら稲垣吾郎は悩みを留めてたと思うから。彼女の引力に導かれて内なる不安の根幹に触れた主人公。女神でもない無邪気な天使? まぁそんな感じ。そのふわっとした掴めなさが魅力的で素晴らしい。倉悠貴は其処に惹かれてんだろうな。稲垣吾郎も其処には気づいてる筈。蒼いなって。カップル二人の共鳴感のチグハグにラストでは笑ってしまっているけど、青さが蘇るシーンでもあって、パーフェクトじゃない感性を思い出す彼は倉悠貴の一生懸命な恋愛を求める姿勢に救われる。そんな気がしている。光の指輪。その意味を彼女は彼に与えた。肉体を求め合う以上に必要な内面の繋がり。文章に置いていかれる慈しみ。壁に投げ付けられたラフランス。重量を否定するみたいにポーン弾け飛ぶ。ラブホテルで素足を露わにした彼女は飛び切りはしゃいでいた。恋するを知った少女の大人の空間に蹲る彼に彼女は恋をした。それをしたためる彼女。読んでと言う彼女。SFだと言ってハテナを浮かべる彼。それを面白がる。いい感じ。機能不全な関係性に唯一繋がっているのは才能を持っているのに行使しないワケを知りたいから。それは稲垣吾郎も玉城ティナも、そして、佐々木詩音も抱く共通の観点。文筆家のコミュニケーション。中村ゆりとは行えなかった事が何より傷付いたのだろう。わかってもらえていると思っていたのかな? 知る由もないのは頭で理解してる筈なのに、世の中には玉城ティナみたいな書き続ける人間の存在が在るのを知ってしまっている筈なのに、彼は共鳴しない哀しみを一身に受け止め、それでいて苦悩して、それでいて飄々としている。歳の差。もっと根本的なコトだと思う。何を重視しているのか。彼にとって彼女は尊大で大切で傷付けてしまいたくないのに傷付けて残滓を残していきたいと願っている。稲垣吾郎はそこが無い自分に嫌気が差している。少女とデートしながら淡々と作品について語る彼は自らが取り込まれる事を知って尚、玉城ティナとの交流に身を捧げる。人生初のパチンコと慣れないラヴホテルの一室でトランプ。二人でやっても楽しくないのに笑ってしまう二人。缶詰にされてる彼を彼女は憐んでいて、それをタクシー運転手からの智慧で気付く。嗚呼、面白いですねって。感嘆。彼の苦しみと自分の苦しみにワケがあって共鳴している。書く事の苦しみを理解している彼は彼女の母性的なソレに甘えてしまう。それを知ってるからふざけて少女との一室の戯れに付き合う。布団被ったバイヴレーション。濡れた足跡が羽毛に覆い被った白いシーツに跡を付ける。官能的に描ける筈なのに馬鹿らしい光景に彼女は恋をする。彼だって知ってる。カーテンの向こうの彼女は心の奥底を触って揺らめく布を見て楽しんでるだけだって。無邪気な彼女のモデルになる事を愉しむみたいに。でも、それは小説家同士の共鳴。彼達と彼女達の共鳴は複雑なのを二人は知っている。だから美しい。作品は美しい。共鳴が本に刻まれて“小説”が産まれる。彼は過去になると言ったがそうは思わない。

 松金よね子さんのフォトブックに写っているのは彼の愛情だから。過去になった。けれど、今それを知る。彼の残滓を。彼女は無意識の内に彼の愛情を注がれていた事を知り、同時に自らの行いの虚無を知る。喧騒に紛れた愛情に心を傾けられなかった自分の愚かさは別の物に変換された。テレビに映る彼は私を過去にする。過ぎ去った愛。知らなかったし知らなくても良かった。ケーキとパルフェ。共鳴する甘さに愛が詰まっている。ラストシーン頼むのをやめた彼は何を思ったのだろう。多分、強がりを飲み込む事に決めたんだと解釈している。だって、彼なりの強がりは慈しいから。愛情は日々に溢れている。きっとこの後に彼は小説を書くのだろう。彼を書いた小説を必要なさそうに眺めて、「ラ・フランス」の文字を追う彼の小説に何が書かれているのか。何を刻みこむのか気になった。煌めいているから光の指輪模様に。



・レビュー
ツボに嵌った作品になった。清々しい程に正直な主人公の小説を是非読んでみたいと思う程に純粋に。「ドライブ・マイ・カー」や「嘘を愛する女」を想起したけど、根幹的に恋愛に偏っていて、かつ、小説家という枠組みをメインにしているのは面白かった。曲折的に愛を語る物語は多くても、ここまで主人公以外の人物が恋愛しながら主人公だけ恋愛からかけ離れた恋愛映画も珍しいと思う。あとは、心の繋がりは愛なのか?っていうテーマが二時間半走り続け、ずっと問い続けている感じが好き。自分は愛だけど恋愛とは違うもっと根源的な無垢な動物的で無邪気なそれだと思ってる。愛だけど心の繋がりは誰にでも等しい感情の豊かさを与える。的なね。
すっごく良かった作品。「愛がなんだ」に執着してる自分からすると、今泉力哉監督とチューニングが似ている気がしてちょっぴり恥ずかしく、けっこう悔しかった今作。アンサー…と言っていいのかは分からないけれど、何となく当てに行く姿勢みたいなのが、あの作品の後に作る意味みたいなのを感じるかなと。ユキノって名前を使ったりするとことか意図してるかは分からないけど、すんごくわかる気がする。トランプと檸檬。このチョイスはズルいなと思ったり。色んな意味合いで愛らしく慈しんで見れた「窓辺にて」。続編も作っても面白いじゃないかな?と思わせるくらいチャーミングな登場人物の群像劇がいい刺激になって、壁の向こう、コミュニケーションの向こうに行ってみたい気分になった。自分は生きてる以上諦めるタイプじゃないから玉城ティナみたいに奔放に生きたいなって。生きる事はできなくても、そんな小説を書きたいと思わされる一作でした。すごく楽しめた!!

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