神様は意外と役に立つ。
古来、「孟子」を中国から日本に運ぼうとした船は必ず神風にあって沈むとされてきました。孟子が易姓革命を肯定しているから、天壌無窮の神勅をいただく神々の怒りを買わずにはいないというわけです。易姓革命とは天命が改まって王朝が変わることです。天壌無窮の神勅というのはアマテラスオオミカミが、日本は永遠に我が子孫が知らす(治める)国だと宣言したことを言います。
孟子は天命の変更は民の声によって告げられると言っていますが、日本ではこの神勅こそが天命なので民の声はなんの関係もありません。そんな理不尽なと思うかも知れませんが、実はこれはよくできた仕組みなのです。王に対しても民に対しても神々が縛りになるからです。
「孟子」には王にも民にも縛りがありません。だから古来中国では王は好き勝手に民を殺し民もチャンスさえあれば好き勝手に王を殺します。
日本では、王にとって民はあくまでも神々から預かった大御宝(おおみたから)であり、アダやオロソかには扱えばタチマち神罰が下ります。王はあくまでもマネジャーであってオーナーではないのです。また民にとって王は神々に授かった王であって、人間の都合で勝手に変えられる存在ではありません。間に神々を介在させることで、双方が相手を大切にするように、理不尽なことが出来ないように縛られているのです。
では目を西洋に転じましょう。西洋においては、神の意志はモーゼの十戒のように成文法として預言者に与えられてから民に告げられました。やがて預言者の時代が去ると法の番人としての裁判所による解釈を通じて神の意志は民に伝えられるようになります。
王も民も、法(裁判所)の拘束をともに受けるのです。
今もアメリカの最高裁判所はアメリカ合衆国憲法を人間同士の決め事ではなくあくまでも「神の法」であると考えています。そしてこの神の法を大統領と議会と民衆から守ることを自分たちの使命と考えています。
もちろん神々など存在しません。でもそんなことはちっとも問題ではないのです。人はチンパンジーのように現実だけを生きているのではなく、言語によって作り出された仮想の世界を生きているからです。物語が生み出すモラルやルールを生きているからです。
つまり神様は意外と役に立つのです。
僕の自慢の音楽も聴いてね。
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「陽だまり」
フルートとヴァイオリンと
ヴィオラとチェロと
ピアノのための五重奏