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Only The Piano Knows⑦

ジョンには勢いだけしかなかった。
ノエルの家を辞して急いで自宅に帰ると、一息つく間もなく彼は2階のピアノへ向かった。
スタインウェイの鍵盤蓋を開けて、椅子に座る。
目の前にデボラの写真がある。彼女はいつもより笑っているようだ。
―これで、いいんだよな―
ジョンは目を伏せて、胸の中のデボラに問いかけた。
デボラは頷いている。
―あなたの末息子は私の末息子。彼を笑顔にしてあげて―
ジョンはゆっくり瞼を開けた。そこはいつもの部屋いつもの景色。だがジョンは今普段をかなぐり捨てようとしていた。
指を鍵盤に置く。彼は鍵盤をたたき始める。
スケールから運指のハノンから念入りに弾く。
やがて彼の指はジャズナンバーに移った。かつて数々のステージで弾いたナンバー。譜面など見なくても指は覚えている。
どれほどの時間を弾き続けただろう。
独身だった時、かつてこのグロスターでナンバーワンのジャズピアニストとして謳われた時以来な気がした。
気が付けば夜だった。
ふと、ピアノの上のデボラの写真に目を移す。
彼女の写真は…昨日見た時よりも色あせて見えた。
強烈なさみしさをジョンは感じる。
それを選んだのは自分だというのに…
「デビー…もう、君はいないんだね」
ジョンはデボラにささやく。
「そして、俺は生きている。君がいなくても…」
ジョンはまた鍵盤に触れた。
彼の指が紡ぎだす音は、アイヴィーがよく弾く「Without You」
Evilfingerの曲はジョンもそれなりに知っている。
この曲もその後カバーする歌手が大勢いて大ヒットしたものだ。
この曲は別れの曲だ。心は今のジョンと重なった。

この日を境に、ジョンは毎日ピアノに向かい合った。
もともと大好きだったジャズピアノだ。何時間でも向かっていられた。
アイヴィーが来る日だというのに、それを忘れて弾き続けたものだから電話が鳴って、慌てて玄関まで迎えに行ったほどなのだ。
「おお、すまなかったな。いらっしゃい」
「おじさん、大丈夫?忙しいの?」
アイヴィーは相変わらず気を廻す。
「まあな。でも大丈夫だ、さあ、レッスンにしよう」
アイヴィーはちょっと首を傾げた。
いつもはもっと落ち着いた、というか厭世的なジョンなのだが、今日はどこか華やいで見える。ジョンの後について2階に上がり、ピアノの部屋に入ってアイヴィーはまた驚いた。すでに蓋が開いていてジョンが弾いていたようなのだ。
「おじさん、弾いてたの?」
「ああ、ちょっとな」
ジョンは屋根の上にある譜面を集めて脇に寄せた。
その譜面をアイヴィーが興がって背後から眺める。
「…これ、ジャズナンバー…」
「ああ、しばらく弾いてなかった曲だから譜面がないと微妙にわからなくてね」
タイトルにはTea For Twoとある。
ジョンはくるっとアイヴィーを振り返った。
「アイヴィー、弾くか」
「う、うん…何を…」
「おまえが良く弾いている、Without Youはどうだ?あれなら俺もピアノで伴奏ができる。おまえはギターを弾いて、歌ったらいいじゃないか。できるだろう?」
たしかに、できた。弾きながら歌うことはいつもパブの舞台でやっていることだったからだ。
しかし、ごくごく普通にジョンが自分と弾くというから戸惑う。これまでどこまでも人前で弾くことを避けてきた人間とは思えない。
「できるよ」
「よし、じゃあ、そのマーティンをさっそくセッティングするんだ。俺はいつでも弾けるぜ」
「わ、わかった」
ジョンの勢いに押され、アイヴィーは急いでハードケースからマーティンを取り出すとストラップをかけ、チューニングをする。
「おじさん、OKだよ」
弾くときになると、アイヴィーの顔はきゅっと引き締まる。またそれがよかった。ジョンは満足げに頷くと、何の前触れもなくイントロを弾き始めた。
アイヴィーはまじまじとジョンを見つめる。その手、指すべてジャズピアニストとしての自信がよみがえってきているような気すらした。
インプロヴィゼーションをはさみながらのピアノのイントロに、ハーモナイズするようにギターを鳴らす。ヴァースになるとすとん、とヴォリュームをジョンが下げる。その様にまたアイヴィーは驚く。あの鍵盤を自在に操るとはこういうことなのかと。
ジョンもまた、アイヴィーの声に驚いていた。いい声だとノエルからは聴いていたが、こうして目の前で聞くとやはり驚きでしかない。
もう、かれこれ5年前、出会った頃に聴いて以来の歌声だ。
低く、甘く色気のある声。15歳でこの声が出せるのは大きな財産だとジョンは思う。
おかげでこのWithout Youなる大人の別れの曲のようなものが歌えて違和感がないのだ。
コーラスの力強さに対してのギターの柔らかさ。
自分なら、このギターと歌に対してどうピアノを弾く?
デュエットやトリオなどではいつも考えて弾きながら答えを探していた。
正解かどうかはわからない。だが自分の表現を相手の表現に調和させることはアーティストとしていつも突き詰めてきたつもりだ。相手が誰であろうと。
アイヴィーが、そう弾くのならジョンは、思い切ってヴォリュームを落とした。
そこからだんだんとクレッシェンドしていく。
鍵盤のキータッチが強くなるにつれて、アイヴィーの弦の弾きも強く、太い音が出てくる。
インタールードはギターとピアノの掛け合いのようになった。ジョンは弾きながら笑った。このアドリブの投げ合いが楽しくて時間が経つのも忘れたものだ。
デボラと弾いたときなど、どちらか音を上げるまで弾き続けたものだ。
一曲弾き終わって、アイヴィーはただ愕然とジョンを見つめていた。
その顔には「信じられない」と書いてある。
「どうした?」
「どうした、じゃないよ。そんなに弾けるって俺にまで隠して…」
恨み言を彼は言った。
「あはは、すまんすまん。隠したわけじゃないんだ。突破口がやっと見つかったんだよ」
声を出して笑うのも久しぶりではなかったか。
「突破口?」
訳が分からないようで、アイヴィーは聞き返した。
「そう、こっちの話さ…それより、俺もノエルのライブに出ることにしたからな」
「ええっ?!ど、どういうこと?ノエルに脅されたの?」
「脅されたなんて、人聞きが悪いなあ」
普段表情の乏しいアイヴィーが面食らっているのが面白い。
―俺も人が悪いな―
ジョンは苦笑した。
「突破口が見つかったからさ」
「突破口…」
突破口と二回も繰り返したジョンにアイヴィーはオウム返しにそれを繰り返した。
きっとアイヴィーにはわかってない。それでいいのだ。
「なあ、アイヴィー、ステージでこの曲、今みたいに弾かないか?」
「…ジョンおじさん…ジャズの人なのに?」
「俺は昔なんでも弾いてたんだぞ。ロックもジャズもクラシックも。えり好みはないんだ。一番はジャズだけれども、ロックの中にジャズの要素がないわけじゃない。逆も真なりだろ?」
「そうだけどさ…」
ジョンは深呼吸をした。一段と落ち着いた声で、慈しみにあふれた声で、もう一度誘う。
「アイヴィー、俺と弾かないか?」
「おじさん…一体、どうしちゃったの…」
「なあに、おまえは俺の末息子だからな。父親が息子とステージに立って何が悪い」
照れもあるのかジョンはさも当然、という顔をした。
しばらくの沈黙をはさんで、ジョンは穏やかな声で付け加えた。
「息子とステージに立てるなんて、夢がかなったようだよ」
息子たちにピアノを教えながらよぎった夢。父親と息子とでピアノを弾けたらいい。あるいは母親と息子でもいい…そんな願いはもはやかなわないのだと思っていた。
「ありがとう…」
アイヴィーははにかんだ。早くに大人にならされた彼に子どもの影がのぞく。


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