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石原兄弟と戦後日本

【「普通の家庭」】
石原慎太郎という人の出自を見ると、家庭は極貧というわけでは無いものの、絵に描いたような、というか、小説に描いたような、日本の平均家庭である。親族に日本の中枢を担うような人はもともといない。父親は大酒飲みの巨漢で、身体の丈夫さと真面目さだけで成り上がった感じがする。一方で母親は機転の効く賢い人であったようだ。いずれにしても日本の社会のエスタブリッシュメントとは縁のないところで慎太郎の兄弟は育った。

【石原家と敗戦、そして戦後】
その兄弟の若い時代に訪れた敗戦。戦後の何でもありの無秩序で生き生きした庶民の貧しい時代。そして訪れた高度経済成長期。慎太郎が掴んだ千載一遇のチャンスを兄弟は最大限に使った。日本の戦後の庶民の行き場のないエネルギー発散の場としてのエンターテインメントが彼らの舞台だった。娯楽小説。映画。それを支えた日本という地域の混沌とした貧しさの中からの脱却の過程としての高度経済成長期。慎太郎は裕次郎と手を取り合ってこの戦後世界の安定期までの時間を、日本の庶民の心の中に渦巻く敗戦のしこりを隠す大きな傷あとのかさぶたが成長するように大きな存在になって、常に走った。自らが混沌としたガラクタでむせかえる日本社会の中で、朝鮮戦争と言う急激な経済成長のきっかけを掴んだその庶民の姿と、石原兄弟の姿はおそらく根本にある一族の生への渇望と充足の過程とだぶって見えた。それが石原兄弟の掴んだ大衆のこころの正体だったのではないか?

【「文壇」と慎太郎】
日本の、政治的にはリベラルな、どちらかというと青臭いインテリの匂いを漂わせた、頭でっかちなマルクス・レーニン主義を良しとする戦前から続く日本の文壇の雰囲気は、戦後の大衆芸能の寵児たる慎太郎を受け入れ、慎太郎もまた、その文壇に加わった。文壇のニューエイジという扱い。その場所での文筆家としての居心地は、慎太郎にとってそんなに良い場所ではなかったのではないか?と想像する。今で言えば、慎太郎の大衆文学は、純文学に乗り込んだラノベ作家のような感じだっただろう。ただ、時代が違った。軽薄で刺激的なわかりやすいものは、文壇よりも大衆が大量に受け入れた。文壇も異質であることはわかっていながら、それを受け入れるしかなかった。石原慎太郎の「文学」は、ある意味、鎌倉文士などと呼ばれる人たちとは対極にあるものだが、だからこそ彼は文壇のインテリになりたくてしょうがなかった。居住地も一時は湘南に構えた。しかし本質は違った。出自が違うので、それは致し方ない。しかし彼はそれを望んで果たせなかった。

【石原家に見る「聖と俗」】
ある意味「聖と俗」ということで言えば、明らかな「俗」そのものを体現して成り上がった慎太郎と裕次郎。彼らはそこから抜け出すことを望んで、果たせずに一生を終えた。慎太郎の政治家への転身も、どこかでエリート臭がする日本のリベラル的なものを忌み嫌う言動も、おそらくそこになんらかの答えがあるのじゃないかと、私は思っている。慎太郎の周囲を見渡せば、同時代の文壇には、慎太郎とは逆のコースをたどって自滅した三島由紀夫という存在がいた。どちらもリベラルを忌み嫌い、過剰なまでの時代遅れと、当時は思われていた軍国主義に傾倒したのは、いずれもが果たし得ないとわかってしまった、日本の戦前から続くエスタブリッシュメントへの自らの一族の登録への渇望があったからなのではないか?

【三島由紀夫との比較】
三島由紀夫は日本のエリートを象徴する東大の学生の前で呼ばれて講演し、学生の一部と論争する場面は有名だ。今でもYoutubeでその姿を見ることができる。石原慎太郎にはそれがあったとしても印象が薄い。まるで水と油というくらいの違いが三島との間にあるのが明白だ。日本の戦後の文学として見た場合、坂口安吾、安部公房、大江健三郎などの印象は強いが、残念ながら石原慎太郎の場合はどうしてもサブカル臭がついて回る。ノーベル文学賞などの権威とも無縁な感じがする。ある意味独特な立ち位置ではあったのだろうが、日本文壇の主流とは明らかに違う扱いが感じられる。

【日本の戦後を走り抜けた先にあったもの】
日本という地域の戦後という特殊な時代。そこに開いた徒花のような人たちの群れの最前線を、彼らは全力で走って走り抜けた。その走り抜けた先には、自らの渇望した一族のユートピアは無かった、という意味で、私は石原慎太郎という人の哀れを見ている。所詮は主流にはなれなかった、その晩年の無念さを思う。慎太郎氏は晩年まで小説を書き続けていたと言う。それでもまだそこで足掻いていた。あと数年ある、あと数分ある、と、何かに追い立てられるように書いていたその姿を思い描いて見る。

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