もしも「競争」が......
【「全力を尽くさない」メリットがある】
大学駅伝とか様々な個人の優劣を競うスポーツは、競技者全てが横につながり、それぞれが全力を尽くさず、合意のもとに完全に横並びでゴールすると、競技が成立しない。しかし、誰もが「敗者になるのが嫌だ」ということで共通の損得関係があるわけで、そういうことも起きて不思議ではない。駅伝ほど多くの人に目立つ場ではなくても、運動会の徒競走とかまでになれば、おそらく「みんな平等の教育」の場ではむしろ、推奨されることだってあるかもしれない。実際、競争入札の現場でもビジネス上の談合による持ち回りの利益分散など、それぞれが競争を嫌う場ではそれが行われている。「勝ちたいが、それ以上に負けたくない」であれば結果として、人間社会では「競争」は消えていくだろう。これが「横につながる相互扶助」であるとポジティブにとらえれば、競争とは自然発生するものではなく「なんらかの権威のもとに、やらされるもの」という認識が多くなるだろう。ポケモンどうしの戦闘にもそれはあり得る。そしてそれを「ルールのもとの民主主義」というのであれば、それはそれでアリとも言える。ただし、そういうことは、もう全力で成し遂げる意味はなくなっていく。これが「権威を抜きにした横につながる効果」であり、権威を持つ側が一番警戒もしているところではある。しかし、インターネットやその上で動くSNS等が発達したおかげで、権威とは離れたところ、認知がされないところでの「競争抑止」が働き始めている。それが今の社会で始まっていることだろう。
【芸術の競争】
なんらかの権威のもとで行われる、コンテストへの出品作品でもAIが使われ、すぐに全部をAIでやったものさえ出てくる。文学作品でも、絵画でも音楽でも。それは「最強」である。既に囲碁も将棋もチェスも「最強」はAIであり、ルールが変わってもそれに最速で追随するのはAIになることはわかりきった事実だ。であるから、既に囲碁も将棋もチェスも人間の試合しか試合とは認めない、と言うルールができた。これは「人間は二軍」であることをはっきりと意味している。
【競争をするな。新たに作れ】
人間がやることは、これまでの権威のもとで行われている競争ではない、新しい文明のフィールドを開拓することだ、と言うのは、そういうことだ。
【新たな人間の生きる場所を増やせ】
人間が全知全能を使ってこれから始めることは、AIというこれまでの人類の蓄積の外にあるものにリスクを承知で手を出し、それを新たな人間のフィールドにして、私たち人間が作ったAIにインプットすることしかなくなる。ここに気がつかないと、人類の歴史は終わるだろう。