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リベラル・アーツの落とし穴。

【リベラル・アーツの定義】
「Liberal Arts」とはなにか?一例として学科として「Liberal Arts」しかない日本の大学「国際キリスト教大学(ICU)」では、その定義を「個人の能力を開花させ、困難や多様性、変化へ対応する力を身につけさせ、科学や文化、社会などの幅広い知識とともに、より深い専門知識を習得させるための学習方法」としている。「学習方法」を習う大学が「ICU」という大学、と言うことになる。なんだかわかりにくいが、私としては「学習方法」は、できれば自分の自由にしたいので、参考程度に聞いておきたいものだ、と思うのだが、それじゃダメなんだろうか?という思いは残る。

【人間の脳にはキャパシティがある】
見れば「幅広い知識」と「深い専門知識」の両方を持つ人間を育成する、というわけだが、人間の脳の物理的容量には限りがあるので、あまり詰め込んでも溢れる。だからこそ、人工知能というものが作られたわけなんだけどなぁ、とか思っちゃう自分は、人間というのはいくら優れていても所詮は人間であり、その脳に記憶でき、処理できる限界は個人差はあるにせよ必ず「ある」ので、無理しちゃったら不味いんでないかなぁー、と心配してしまう。

【楽観は消えた】
現代のLiberal Artsのベースにある極めて楽観的な前提は「人間の記憶容量は無限である」なんだな。でもそれってあり得ないわけでね。結果として目的は完全には達成されない。完全に達成できるのは人間ではなくAI、ってことになると、なんのためのLiberal Artsなんだよ、ってことになる。つまり、現代のLiberal Artsってのは、前提が間違ってるとぼくは思うんだな。別の言い方をすると「人間はバカで不完全で凸凹」なので、なんでも詰め込もう、ってのは無理がある、ってことね。

【モデル化の意味はない】
しかし、現代までの「人間認識」って、結構、その程度のもので、それはとても問題なんだが、さらに問題なのは、脳の疾患等だけでなく、そこまで行かなくても、人間の脳というのはかなり個性的である、という前提(しかもそれが各人の置かれる環境の変化で時系列で急激に変化さえする)が無いために、必ず「落ちこぼしになってしまう人」を無視していて、そう言う人をまるで人間だとは扱わない、ってことだな。まるでサルのように、人間社会には無かったものとして扱わざるを得なくなる。別枠を設けてそこに放り込む。これは「人間的」とは言わないはずだ。

【人間とはなにか】
「人間とはなにか」という、前提を問う、その問いに、Liberal Artsは答えてから「幅広い」かつ「専門的な」人間になるべく教育して欲しいものだと思うが、そう言うことはされていないようだ。だから、Liberal Artsというのは胡散臭いものに見られてしまっていると思うんだね。まぁ、カタカナで言わなくても東大だって「教養学部」ってのがあるわけで、似たようなものとして定義されているとのことだが、実際に胡散臭い感じもするが、一方で「本来の大学」ってのはこういうものじゃないか?という意見も聞いたことがある。

人、と言う物理的事実を無視したLiberal Artsが、大したものであるはずがない。ぼくはそう思うんだけどな。

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