雨の鎌倉
【紫陽花の季節ではなくとも】
紫陽花の季節なら、雨の鎌倉というイメージが湧く事が多いだろう。実際には紫陽花の季節ではないこの時期に雨になると、むしろ鎌倉のお寺には人が少なく、濡れた緑、雨の水滴が落ちる枯葉をためた手水など、今の季節ならではのいい感じの映像が結構多くなるのだ。しっとりと雨の中をお寺を巡って歩くと、実は鎌倉というところはこんなところか、と、言う新鮮な出逢いが、そこここにある。雨の中、カメラを持ってお寺の写真を撮りに行くことも結構いままで多かったが、そんな時に限って、いい写真が撮れた、と思うことが多かった。観光客で賑わう中では感じられない落ち着きと静寂。雨の鎌倉は、実は「穴場」だ。
【お寺を巡ること】
お寺というところは、万事を終えた過去の人たちに囲まれ、自分と向き合うところだ、と、気がつくのだ。そんな気持ちになると不思議と、自らの身の上に起きた事の裏側に隠れた様々なものさえ、まるで超能力でも得たように見えてくることもある。「あぁ、これが、本当にお寺を巡る、ということか」と気がつく。なぜ神が私に彼岸の入り口を見せ、なぜ再び現世に我を置いたのか?自らの現世での役割を再び心の底から認識し、この役目を終えるまでここにいよう、と思う。
【多くを語るなかれ】
取るに足らない讒言を弄して得るものではない、自らの心から湧き上がる真の一瞬を得るために、雨の鎌倉を巡る。やがて海に浮かぶ藻屑のように、何もなかったかの如く洗い流される自らの命の今あるこの瞬間を、ただ大切にしよう。雨の鎌倉は、そんな気持ちにさせる。
【成就のあとに】
万事を受け入れ万事に素直に、挫折も成功も万事を我が事とし、雨の日は雨を受け入れ、晴れの日は陽を受け、いま私は此処にいる。これからもそうするだろう。大いなる志を持って、それが自らの半生で成就した、という実感が、私にはいま、ある。もちろん自分だけの力ではなく、多くの人の志、協力もあって、だ。
自分に起きた物事は表面的には自分だけでやったように見えるが、いまこの世を生きているだけで、既に誰かの世話になっているものだが、その人たちとの思惑もおそらく一つになったからこその成就である。自分の成果は自分だけのもの、という考えの人が今は多いが、この複雑な世の中でそう思わせられているだけだ。自らの欲と穢にまみれる毎日は現世にある以上みな同じだが、それらを取り去る瞬間を得れば自ずと本質だけが、はっきり見え、自らの現世での役割を再認識する。
雨の鎌倉とは、自分にとって、そんなところだ。