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研究者ではない人がこの時期に気をつけること

【「信じる」ではなく「疑え」】
結論から言うと、研究や調査などの仕事をしたことがない人(ほとんどだろう)は「信じる」ではなく「疑う」ほうに重点を置くのが、自分の身や家族の身を守ることに繋がることが多いだろう。コロナで「こういうことをするとコロナにかかりにくい」という「研究者(権威者)」の話を信じるのではなく「疑う」ことが必要だ、ということだ。

【研究とは】
研究とは簡単に言えば以下の手順で行う。

1.ある現象が「普通と違うな」と思う。あるいは「普通のこと」でも疑問を持つ。
2.ある現象がなぜ起きるか「仮説」を立てる。
3.「仮説通りなら、AをするとBになるはずだ」と、思って「実験」をする。
4.実験の結果で「仮説」が正しいかどうかを判断する。
5.その判断に基づいて、仮説が正しいと他の研究者も納得させられると確信したのであれば「この仮設は正しい」とする。誤っていたのなら「仮説は誤っていました」とする。
6.この結果から論文を書いて発表する。仮説が正しくても誤っていても発表する。
7.その結果の論文を見て、他の研究者や、自分の後続の研究を進める。

「こう思う」という自分の「仮説」を、自分自身で検証して「間違ったら間違ったと認める」ところから、次の研究が始まるし「正しい」となれば「仮説は正しい」というところから、次の研究を始める。

また、ある仮説の検証が終わった後に「どこかに間違いがある」と発見するかも知れない。そこで、もう一度「追試」をすることもある。その追試で「やはりあの研究はここに間違いがあった」と、誰の目にもわかったら、そこで、仮説の立て方や研究の方法を変えて、同じことを繰り返す。

【研究者は信じない。疑う。】
研究者の日常とは、要するにこういうことだ。だから、「信じる」ではなく「疑う」ことが大事だ、と、研究者は心に刻んでいる。それを突き詰めれば「自分を疑う(信じない)」から、全てを始める、というメンタリティができている。誰かの懐に抱かれ、こころの底から安心することそのものが、不安の原因になる。そういう「人格」を持つのが研究者なのだ、と言うことになる。

【研究者が相手にしているのは「人」ではなく「自然」】
研究者が常日頃相手にしているのは「人」ではなく「自然」である。自然は、「1+1=2」以外の答えを認めない。「なんとかして1+1=3ということにしておいてくれないか」といくら懇願しても、その答えを曲げてくれない。人間だったら、曲げてくれるかもしれないけれどね。さらに自然は「なぜ1+1=2以外は認めないのか?」ということも、聞いても教えてくれない。その「答え」に至る道は簡単ではない。そういうものが日常の相手なので「研究」というやり方を通して、自らの人間としての「いい加減さ、曖昧さ、甘え」を厳しく戒める。それを人間個人の権威、組織の権威などではなく、仕組み(システム)として実現したのが「研究」という行為だ。自らが間違っていたときも、それを認めてから、先に進む以外の道はない。自分の心がどんなにズタズタになろうとも、そんなこととは関係ない。これが「自然を相手にすること=研究」という仕事の中身だ。

【コロナで起きていること:研究者は】
結局、そういった研究者も今は「SNS」などの個人での発表手段を持つので、自分の研究が途中でも、それが正しいか間違っているかの評価が広く定まっていない時期でも、それを出したりする。人間社会の中での自分の立ち位置を有利にするためだったり、多くの研究者以外の賛同者を増やすためだったりする。あるいはもっと良心的で「自分の研究はまだ途中で真偽はまだ定まっていないが」という前提のもとで、それでも「世の中の役に立つと思うから」という気持ちで発表したりする。良い意味でも、悪い意味でも研究者も所詮は「人の子」なのだ。だから、研究者であれば、「これはまだ途中の自分だけの研究で、他の研究者にも研究して真偽を確かめていただきたいのですが」などの前提を語った上で「発表」する必要がある。

【コロナで起きていること:研究者でない人は】
コロナ禍では多くの研究者がテレビやネットに「専門家」として登場した。そして、時間が無い、というこの状況で自らの研究を途中(まだ多くの研究者の追試などの確認を経ていない状況)で披露して、なんとか人類を救いたい、と考え、行動してきた。しかし、研究者ではない人は「権威のある先生の言うことは間違っていないだろう」と思ってそれを聞く。意識せずに「権威を信じている」からだ。そして全く正反対の専門家の言うことにも右往左往し「仮説を間違った」研究者を罵倒している、と言う場面にも多く出くわす。「お前は社会が認めた専門家なのに、間違えた答えを人間社会に出すな」ということだ。

研究者ではない人は、研究者は「なにか素晴らしい結果を出した権威」と、思っているだろう。それは人の社会の中での評価であって、研究者個人や同じ研究をしている人たちの集まりが、自然と格闘して得た結果が、人の社会で役に立つことになった結果だ。当然だが「役に立たなかった研究」は実は「役に立った研究」以上にたくさんある。その上で、多くの「間違い」を排して、やっと得たのが数少ない「役立ったもの」ということだ。

2010年に、日本人のノーベル化学賞受賞者は2人が同時に出た。根岸先生と鈴木先生のお二人だ。ところで、このお二人は「なんの研究成果があったのか?」言える人は、研究者以外の人ではごく少ないだろう。多くの人は「人間社会の中での評価だけが関心の中心」だから「ノーベル賞受賞」だけが関心事だからだ。しかし、研究者は自分の研究という仕事の出した成果を人間社会に還元できた、ということに人としての喜びはあるが、それは自分だけの成果だとは思っていない。多くの研究者が外してきた仮説をじっくり読んで理解し、自分も間違うかもしれない、というリスクの中でなんとかして得た「研究成果」が、たまたま人間社会で役に立った。それだけだ。

【「専門家」「研究者」を正しく知ろう】
このコロナ禍は「研究者でない人」が、人間の叡智が長い時間をかけて積み上げてきた「研究という仕事」を正しく知るチャンスかも知れない。まっすぐに、先入観を捨てて、研究という仕事を見ていただければ、と願っている。

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