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グローバリストの余所者の独り言

【PCを担いで鎌倉駅前蔵書室に行く】
「鎌倉駅前蔵書室(カマゾウ)」という「地域コミュニティ」に良く最近は行く。逗子に来た2018年から会員だが、既に6年が経過した。間でコロナ重症化、大腸がん、などなど、個人的事情で、なかなか行けない時もあったが、最近は仕事で忙しくて行けない。しかし、リモートワークも増え、軽くなったPCを担いで行けるようにはなって、医者から毎日歩くように言われているから、とりあえず動けるときはPCをお供にお邪魔するようにしている。

【地域に溶け込めない】
地域の様々なコミュニティなどをしている人たちと出会うのは楽しい。が、同時に、地球上、自分はどこに行っても「余所者(Guest Peaple)」だなぁ、とも感じる。地域に溶け込むと言うほど思い入れが地域にできない。昔から行きつけの飲み屋も無い。そういう人間関係が苦手、ということはある。

【グローバリスト】
これは自らの出自による性質(たち)もあるのだろうが、まずは自分はインターネットの初期から関わって毎月のように米国に行っていた時代があり、日本という地域にさえ足はついていない、と感じる。早くから「地球市民」というキーワードに馴染んでいたこともあるのだろう。むしろ地域や土着のもの、地域の伝統はぼくの中には、おそらくほとんど無い。言い方を変えば「根っからのグローバリスト」なのかも知れない。

【それでも日本で生まれ育った日本人だよ】
日本でのサラリーマン生活も長くはなく、個人事業主である時代が長い。しかもその会社はそれまで世の中になかった「インターネットの推進」のためにできたような会社だった、と、今にして思う。みんながインターネットを当たり前のインフラとして使い出した時期に、会社を閉じた。インターネットは開発の時期を過ぎ、いかに使うかの時代に入っていた。当たり前のインフラになったのを実感した。

【サラリーマンじゃなかったなぁ】
サラリーマンの仕事としてインターネットをやったのではなく、それで米国と行き来したわけでもない。自分の責任で自分の使命感で自分の発案で、自分の稼いだお金で、全てやってきた。今ごろサラリーマンをしているが、今でもその根本にあるものはあまり変わらない。全ては自分のためではなく、自分以外の人のためにやってきたし、これからもそうだろう。明らかに日本の標準的サラリーマンとは育って来た文化が違うのを感じる。おそらく、自分には「ミーイズム」は無い。

【「日本」には溶け込めない日本人グローバリストかも?】
だからだろうか?何故か地域のコミュニティや地域の伝統文化には馴染まず、そういうサークルにもぼくは入ることはなかった。最先端を常に走る、時代の先を見据えた独立系グローバリストとして突っ張ってきたように、今にして自分を思うのだ。

【だからカマゾウで遊ぶ】
それはカマゾウに行く理由でもある。ぼくは他人と同じことをするのが根本的に嫌いなので、その「違い」を確認しに行くわけだ。馴染みに行くのではなく、観察しに行く、という感じになるから、おそらくぼくを見ているカマゾウの人も、ぼくのことは「異邦人」にさえ見えることがあるだろう。ぼくは、地域のコミュニティから見れば、永久に文化の違う「余所者」でしか無く、そうあることをむしろ自分の立ち位置として、無意識に誇りに思ってきた、ということだろう。

【多様性というのであれば】
「多様性」が言われる世の中だが、本当の多様性とは、私のような人間も安心して暮らせる世の中のことだろう、とは思うが、多くの人はこの文化の違いには耐えられないだろう、ということも思う。明らかに日本の標準的日本人からは、雰囲気からして変わっている、という自覚がある。

【お手本も先人もいない分野でやってきたから】
自分は、お手本も先人もいない分野で長く暮らしてきた人間なのだ。自分が動かなければ世の中は動かない。だから動く。おそらく、だからぼくらが世の中を変えた、ともはっきり言うことを躊躇しない。

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