「差別」の作り方
【撮り鉄って。。。】
最近なにかと言われている「撮り鉄」って、そんなに悪いとは思えないんだけどね。ぼくはね。
【読む人の立場で考えよう】
この一行の文章をよく見てみよう。この短い文章を読んだ人は「撮り鉄は多くの人に悪い人と思われているんだな」ということがわかる。この短い文章は巧妙に仕組まれた「撮り鉄排斥のために書かれた文章」なのだ。
【しかも書いた人は免責される】
しかも、この短い文章の字面では、それを書いた人は「撮り鉄は悪い人」とは書いていない。むしろ正反対のことが書いてある。だから、これを書いた人は、以下の効果を得る。
1. 世間一般では撮り鉄は悪い人である、ということを印象付けられる。この文章を読んだあなたも撮り鉄を差別しないと他の人とは違うと思われ、あなたも差別される。つまり、日本のような所属する組織など社会の大勢への同調を個人に強いる社会では、これは読む人への「撮り鉄は差別せよ」という脅しである。これは日本だけではないが。
2. しかもこの短い文章を書いた人は、撮り鉄を差別しているわけではない。「差別という悪いことをしているわけではない」として、免責される。
多くの言葉による差別、排斥というのは、こういった巧妙な「レトリック(だましの手法)」が使われている。
【XXだって会ってみればいい人だ】
という言い方がある。これも「会うまではわからないが」という前提付きでXXという種類に属する人の全てを「いい人ではない人=悪い人」としている。しかもこの言葉を言う人は「差別をしていない」として免責される。つまり「撮り鉄」の例と同じ構造をしている。
【例外を作ることによって差別を深めるという構造】
これらの言葉の構造は「Aという属性の人の集団」全体を一つの塊として認識し、その塊を貶める。そして「例外もある」として、例外を際立たせ、結果として「Aという集団は悪いやつだ」をもう一度再確認する。そういう巧妙な構造になっているのだ。
今一度、他人のしゃべる、あるいは書かれたことばをじっくり聞いて点検してみよう。そこには「差別」が隠れていることがある。