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わかる人、わからない人
非二元が分かる誰かはいますか?
解脱できる誰かはいますか?
悟れる誰かはいますか?
心身脱落する誰かはいますか?
次元上昇する誰かはいますか?
無我になる誰かはいますか?
解放できる誰かはいますか?
非二元の話では、「誰か」「主体」がいないというのだから、上記のすべて、誰もいません。
理解したい! 悟りたい! 解脱したい!という思考が、ただ起こっているだけです。
「私」に起こっている訳ではありません。
誰もいないところに、ただ起こっているだけです。
ここに書いてある内容を理解したい、体得したいという思考が起こってくる人もいらっしゃるかと思いますが、
それも、そういう思考が、誰もいないところにただ起こっているだけです。
何を言っているのか? なかなかわからないですよね。
こういった話を、「私」「自我土俵」で聴いてしまう仕組みしか知らないから、どうしても「自我土俵」で聴いてしまいます。
「自我土俵」の上でどれだけ聴いていても、構造的に理解できるはずはないのです。
「私」は思考の束であり、幻想であり、「幽霊」みたああなものであると、いう「超越知」が起こってくる、ただ起こってくるしか、この話はわからないのだと思います。
どれだけ瞑想しようが、荒業しようが、探求しようが「自我土俵」の上での悪戦苦闘となり、理解できないのです。構造的に。
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