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ダイアモンドの指輪は愛のカタチ?

我々は愛を物に投影しがちである。この傾向は結婚前のカップルにより当てはまるだろう。たしかに、ダイアモンドの指輪を見てわかる通り、愛の強さはお互い分かち合う物の価値が高くなるにつれて強くなると思われがちである。

これは大げさかもしれないが、ダイアモンドではないにしろカップルの声の波形が入った指輪が最近人気がある。それらを見ていると唯一無二なものを購入することで、かけがえのない二人の存在を表しているように感じるのである。

僕自身、恋愛の経験が皆無なので蚊帳の外から石を投げこむような話題になるのはわかっている。しかしながら、先日「ビバリウム」という映画を見て、どうしても「愛を物に映す(移す)」という行為に対して整理せざる負えない気持ちになった。

この話題をするうえでは「ビバリウム」の説明なしでは進めない。

以下は「ビバリウム」の概要である。


関係の深いカップルが愛の巣を求めて不動産を訪れた。言われるままに住宅街にたどり着いたのだが、なんだがおかしい。気が付くと案内人は消え、住宅街に閉じ込められてしまった。するとある時、段ボールが届く。なんと中には胎児が…

僕は「ビバリウム」を社会実験のような感覚で鑑賞していた。実験名は、「愛の形が第三者から与えられた場合、愛を見出すことができるのか」というものである。映画内で家、胎児と二人が見つけて育んでいくものが無理やり押し付けられている。

それらは、結婚という数直線の延長に存在するはずなのに、お互い理解しているはずなのにどうしても受け入れることができない。なぜなら、お互いの合意がないからである。

合意という観点で、カップルは究極の民主政治だと僕は考えている。デートでは特に顕著だ。お互いの合意、もしくはどちらかの妥協によって行き先を決めなくてはならないからだ。意見が分かれたからと言って、僕はラーメン、あなたはピザを食べようなんてことにはならない。

ではプレゼントに始める愛を投影する物はどうだろうか。どうやら同じみたいである。収入、相手の希望、と妥協を繰り返しながら決めるようすから見てわかる通りだ。だからこそ、僕は付き合っているカップルを尊敬している。純粋な気持ちで。

しかしながら、一方で愛の形が第三者によって影響を受けていることも事実だろう。主に物は他者からの評価を受けやすいからである。さきほど取り上げたダイアモンドの結婚指輪もその一つだ。あれなんて僕から言わせてみればいい感じに原子が結合した塊でしかない。しかしながら、他者(たぶん大多数)はダイアモンドの指輪を彼らの社会的ステータスを示すとともに、砕けることのないであろう固い絆だと感じている。

映画では最後に物にこだわりすぎるせいで、関係が崩れていく二人が描かれていた。


妥協を繰り返す先にたどり着くダイアモンドは幸せの形なのか?

それとも二人が過ごした時間が愛になるのか。
今の僕にはわからないのであった。

僕が捻くれているだけなのか...

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