京極高次はなぜライフゼロから出世できたのか?
※この記事は7月に執筆したものを8月10日大幅に改定しています。
前回の記事で、京極高次の「蛍大名のレッテルは、最近のもので、当時は呼ばれていなかったのでは?」という仮説を書きました。
京極高次は、戦国大名で、関ヶ原合戦当日まで大津城籠城戦を繰り広げ、東軍勝利に大きく貢献します。その後若狭国小浜の城主になりますが、今や妹や妻、女のおかげで出世した「蛍大名」と揶揄されています。
今回は高次に張り付いた「蛍大名」のバイアスをいったん剥がした上で、京極高次の出世の道筋を探ってみます。
さて、今回のメニューです。
京極高次の出世全体を俯瞰する
まず、京極高次の出世の道程を俯瞰してみます。
高次は、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康、この三英傑の元で、いずれも出世しています。この事実だけでも、「蛍大名」って呼ぶなと言いたくなります。
一方で、最終着地が9万2千石なので、10万石に達していません。石高だけ見れば大出世とは言えない印象です。
京極高次の面白いところは、この出世街道に2つの大きな谷があることです。この2つの谷でライフゼロのどん底まで落ちたのに、次の政権で復活しています。
生成AIでグラフを作成して、加工してみました。
最初に2つの谷底を見てみましょう。ひとつ目の谷は信長と秀吉の間です。
京極高次は本能寺の変で、あろうことか明智光秀に加担します。
秀吉留守の長浜城を占拠し、明智方破綻と知ると、今度は柴田勝家の北ノ庄城に逃げ込みます。
秀吉は「召し捕って殺せ」という指令を出します。高次は追っ手から逃れ、とうとう山奥の洞窟に逃げ込みます。二十歳で人生ドン底です。
ふたつ目の谷は関ヶ原合戦です。京極高次は東軍家康側に付き、大津城で籠城戦を繰り広げます。当時の日記などを見ると、高次が東軍についたことは世間を驚かせたようです。
大津城籠城戦を敗北で終えると、剃髪して高野山にこもります。アラフォーで、高次は人生を完全にあきらめます。
なんと、敗北が決まったその日は、関ヶ原合戦当日の朝でした。高次は東軍勝利の結果を知りません。あと一日だけ我慢していたら、ああ!
まあ、結果だけ見れば東軍でよかったね、なんですが……
でも、こんなに深い谷に二回も落ちたのに、ちゃんと次の政権で復活している。何と言いますか京極高次は、「結果オーライ」の人生なのです。
三英傑それぞれの時代の出世を見ていく
では、それぞれの出世とその要因を探ってみましょう。
信長時代 10代前半で近江5千石 - デビュー戦の報奨
京極高次は7歳で、織田信長の人質になりました。「信長公記」に、京極高次は何度か登場します。
最初の登場は元亀4年(1573年)7月、信長が足利義昭を槇島城(京都府宇治市)から追い出した戦です。このとき近江奥島の5千石を与えられています。
二度目は、天正9年(1581年)9月、織田信雄の伊賀国攻めですが、名前が登場するだけです。織田軍はつわ者だらけですから、名前が載れば立派と一定の評価はできそうです。
とはいえ、信長時代の5千石は、高次が11歳です。明らかに、若武者の初陣に対するご祝儀でしょう。
その他、正月15日に行われる左義長祭りで、爆竹の準備をしていることが天正9年と10年に記されています。
信長時代の出世成分は、以下のように分析しました。
1) 家柄 30% 2) 戦の功績 10% 3) その他(初陣ご褒美)60%
家康時代 再びライフゼロからの飛躍 - 大津籠城戦の多大な功績
順番から言えば次は秀吉時代ですが、家康時代を先に取り上げます。
先述の通り、関ヶ原合戦当日の朝に敗北、敗軍の将として髪を剃って高野山に入っています。
しかし、徳川家康は高次の大津城籠城戦を高く評価します。
史料によっては「軍功一番」と感謝され、もっと多い石高の申し出が家康から出されたと記す文書もあります。高次はこの申し出を断ります。「敗軍の将に報奨などとんでもない」と断ったとも伝えられています。家康家臣は、山を降りようとしない高次をなんとか説得して、ようやく加増が決まります。
若狭8万5千石に加増転封 [慶長5年(1600年)]
近江高島郡を加え9万2千百石に加増 [慶長6年(1601年)]
高次は、1608年に死去しますが、嫡男忠高(庶子)が京極家を継ぎ、こちらも出世して合計26万石まで加増され、石見銀山まで与えられます。
さらに先の話ですが、息子の忠高が死去し、その時点で嫡子がいなかったので、本来なら改易つまりお取り潰しとなるはずでした。
ところが京極家の嘆願を受けた幕府は、無理やり甥の高和を持ってきて、播磨龍野6万石大名として存続させます。
いずれも、高次の徳川家への貢献を高く評価した結果と記されています。それだけ京極家への信頼は厚かったようです。
家康時代の高次出世の成分分析は以下のように評価しました。
1) 戦の功績 100%
ただ、この戦は敗戦です。さらに、京極軍の仕掛けた戦いはことごとく西軍の立花宗茂たちにつぶされています。
それでも西軍1万5千または4万(諸説あり)に対して、京極家側は3千です。5倍から13倍の差で、相手は最強武将の立花宗茂でした。
おそらく高次は、はじめから勝つ気はなく、「とにかく徳川軍が来るまで持ちこたえる」だったでしょう。
この状況で、戦の巧拙は測れません。東軍についた決断と籠城戦の覚悟、この「胆力」は十分評価できます。
秀吉時代 ライフゼロからのスピード出世
ここからが本論です。「蛍大名」と揶揄される大出世は秀吉時代の話です。秀吉時代の高次は、ライフゼロからはじまります。
前に述べたように、本能寺の変で明智に味方した結果、山奥の洞窟に隠れるところまで追い込まれました。
しかし、ここから京極高次の復活劇がはじまります。太字が重要な出世で、それぞれ史料(主に寛政重脩諸家譜)上にある出世理由を下に書いています。(官位付与の時期は実際は少しあとズレしています)
近江国高島郡 2千5百石 従五位上侍従 [ 天正12年(1584年) ] (A)
石田三成等の建白書(推薦状)あり
近江国高島郡 5千石に加増 [ 天正14年(1586年) ](B)
理由は私の推測を後述
近江国大溝城主 1万石大名 従四位下侍従 [ 天正15年(1587年) ](C)
秀吉の九州平定に従軍、豊前馬ヶ岳城を落とした功績
近江八幡山城 2万8千石 従四位下侍従 [ 天正18年(1590年) ](D)
秀吉の小田原征伐に従軍した功績
近江大津城主 6万石 従四位・左近衛少将 [ 文禄4年(1595年) ](E)
秀吉の唐入りで九州名護屋城をまかされ明の使者謁見に尽力
大津宰相と豊臣姓 従三位・参議 [ 文禄5年 / 慶長元年(1596年) ](F)
(B)だけ、理由が見当たりませんが、それを除けば史料にも理由が明記されています。ひとつひとつを見ていきましょう。
秀吉時代の出世の成分分析
近江国高島郡 2千5百石(A) - 美女龍子と石田三成らの後押し
まず(A)です。秀吉に殺されるはずが加増されたので、ここはとても重要なポイントです。
妹の龍子が絶世の美女だったため、秀吉は龍子の夫を殺して妾にします。絶世の美女=龍子は、ここで秀吉に対して、京極家復活の嘆願をし、妹のおかげで命拾いした、と言うのが通説です。
一方で、「石田三成等が高次復活の嘆願書を出した」という記録もあります。
石田三成は、京極家に仕えていた国人だったとする説もあります。近江で京極家は名門なので、三成がかつての上司を助ける理由はありました。
ただ、三成が秀吉の意に反して嘆願するとは考えにくいです。
秀吉が、京極家復活の大義名分作りを三成に依頼した、と考える方が自然でしょう。
もしかしたら、迷った秀吉が「龍子が京極家復活と言っているが、どう思う」と三成に聞いたかもしれません。そこを、三成が後押ししてくれたかもしれません。
成分分析は以下のように評価しました。
1) 家柄 10% 2) 三成の後押し 10% 3) 美女の妾 龍子のおかげ 80%
近江国高島郡 5千石に加増(B) 近江国大溝城主 1万石(C) - 初との結婚
(B)と(C)、この二つを一緒にいきます。
この1586年前後で、茶々、初、江の浅井三姉妹の嫁ぎ先が次々に決まっていきます。秀吉が茶々を妾(別妻=第二婦人格)として迎える際、茶々は「妹二人の嫁ぎ先を決めてほしい」と条件を出しています。
浅井三姉妹の次女「初」の嫁ぎ先として、京極高次が決まります。
初の嫁ぎ先が2千5百石というのはショボすぎます。私の妄想ですが、ここで龍子と茶々が、高次を出世させろと秀吉にプレッシャーをかけた可能性は高いと思います。
龍子と茶々の猛プッシュは、北川景子(NHK大河 どうする家康で茶々役)と富士純子(フジTV 大坂城の女で龍子役)に迫られたようなものです。いくら秀吉でも断れるわけがありません。
とはいえ秀吉も、謀反人をいきなり何万石にするわけにもいきません。
なので、ここは自身の九州平定に同伴させ、名目を整えて、5千石、1万石とあげて、さらに大名格にして城も与えます。
この(B)と(C)の出世は、初の輿入れのため、龍子と茶々が猛プッシュしたから、と推察します。
成分分析は以下のように評価しました。
1) 九州従軍の功績 20% 2) 茶々と龍のおかげ 80%
近江八幡山城 2万8千石(D)から大津宰相(F)まで - 秀吉の身内
この3つの出世はまとめて考察します。
「小田原攻め」「唐入り」という言葉があるので、戦に貢献したように見えますが、実態はどうなのでしょうか?
まず、小田原城攻めです。この時の戦いは、小田原城に籠城する北条軍を徳川、前田、上杉など含め21万の大軍で包囲しました。本格的な実践は少なく、高次の率いた兵も約500で、目立った功績は記録されていません。
次に「唐入り」です。このとき高次が率いた兵は800名です。しかも、九州肥前名護屋城に出向いたものの、朝鮮に渡海していません。高次の役割は、秀吉不在時の代行と、明の使者をもてなす配膳役でした。
目立った武功がない3つの出世をどう評価するかは難しいところですが、私は、秀吉の身内として信頼を得たからだと考えています。
龍子や茶々を妾と捉えると、「身内」という説明はピンとこないかもしれません。しかし、茶々と龍子は妾よりもっと重要度の高い「別妻」だったとする歴史家が増えています。
特に、初の姉である茶々は主筋の織田家の血筋であり、秀吉の子を産んでいます。2番目の妻としての地位は十分です。
二人を秀吉の第二第三夫人と捉えると、高次は秀吉の義理の兄弟です。
さらに、浅井三姉妹の一番下、初の妹の江が、徳川秀忠の妻になります。この縁組は1595年(文禄4年)9月で、3ヶ月後の12月に高次は従四位の少将にどんと上がっています。翌年またすぐに従三位参議に出世し、豊臣姓も受けています。
江は秀忠に嫁ぐ時点、秀吉の養女だったので、ここでも身内成分が加わります。家康と秀忠は、秀吉の跡取り秀頼の後見役でもありましたので、その点でも豊臣家と徳川家両家の身内となり、重要度が上がります。
女性の影響だけが、出世の要因に見えますが、そうとも言えません。
秀吉からの信頼を得ている様子は、秀吉が大津城を直接訪問して相談したりする様子、また同時に江の結婚を期に、家康からの信頼を得る様子も、当時の書状などから読み取れます。
何よりも大津城は重要な要衝でした。大坂と京都に近く、琵琶湖の北陸流通ルートの基点となる城です。本当に信頼できる人間にしか、この重要な地はまかせません。
さすがにこの時期の出世を、女性のおかげだと笑うのはフェアでないと考えます。
近江八幡2万5千石から大津宰相までの成分分析は以下のように評価します。
1) 小田原攻めや名護屋城での功績 10% 2) 茶々、龍子、初、江の身内 40% 3)秀吉や家康からの信頼 50%
京極高次は同時代にどう評価されていたか?
では高次は周囲からどう評価されていたのか? 最後にそれを確認します。
「蛍大名」とする史料が見つからない一方、彼を高く評価する記録も多くありません。
唯一「大津籠城合戦記」に、以下の記載を見つけました。
「高次は智謀武勇の名将なり」(大谷吉継)
西軍の大谷吉継が、高次の籠城を知り、「京極高次は智将であり、家臣の結束も固い。少兵といえど鉄壁の籠城になる」と警戒したと書かれています。ただ、「大津籠城合戦記」は江戸時代後期(1805年)に京極家家臣が書いた軍記物です。史料価値は低いです。
もうひとつ、江戸時代の京極家関連史料では、京極高次を中興の祖として高く評価しています。
「京極家」は、室町時代初期は名門中の名門でしたが、戦国混乱期に名門の地位を失ってしまいます。
京極高次は、いったん落ちぶれた名門を見事に復活させました。京極家が江戸時代幕末まで名門家として続くのは、間違いなく高次のおかげです。
まとめ
ここまで読んでいただきありがとうございます。
京極高次は、不思議な戦国大名です。
読んでいただいた通り、家康時代を除けば、戦国武将としての戦の功績は20%以下、ほぼ10%程度と見積もっています。男らしい武功や業績はほぼありません。
どうやら、妹の龍子と浅井三姉妹、女性たちの影響が大きいのは間違いありません。
一方で大津城籠城という驚くべき決断もします。本人は失意のうちに出家しますが、家康に連れ戻され、名門の京極家を見事に再興します。
京極家ほど長く続いた名門家はありません。江戸幕末まで京極家が存続したのは、間違いなく高次のおかげです。
ここまで見て、京極高次の評価は、以下の3つではないでしょうか?
信長、秀吉、家康 三英傑に仕え、いずれも出世している。秀吉、家康からは高い信頼を得て、ライフゼロから自身と京極家を復活させた
武功は少ない。大津籠城戦も敗北して終わっている
妹の龍子と、浅井三姉妹 茶々、妻の初、江と女性の影響が非常に大きい
「なんだやっぱり蛍大名じゃん?」と見る人もいるでしょう。
ただですね、「蛍大名」というレッテルのおかげで、大きなバイアスがかかっています。小説だけでなく歴史書でも高次は、始終ダメ武将として書かれています。これは「フェアじゃないぞ」と、(なんで彼の肩を持つのか我ながらよくわかりませんが)言いたくなります。
京極高次が「蛍大名」と揶揄されるのは、肖像画も要因ではないでしょうか?
可愛く太って、つぶらな瞳、とても戦国を生き抜く男には見えません。「蛍大名」成分が強く見えてしまいます。
一方、京極高次の木像も残っていて、こちらは肖像画とまったく違って、眼光鋭い名将の趣です。もし、この木像だけ残っていれば、彼の評価は全く違うものになっていたかもしれませんね。
京極高次を、蛍大名と笑うこともできますが、むしろ、女性たちにも信頼され、信長、秀吉、家康たち三英傑からも信頼された男と評価することもできます。
京極高次は、戦国武将というステレオタイプにまったくはまりません。戦国時代からはずれた男だったのでしょう。
そんな時代から外れた男が、三英傑と女性たちから信頼され、結果オーライの人生を見事に生き抜きました。
京極高次はなんとも不思議な戦国大名なのです。
以上