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ユダの手紙 ゆるい解釈(ユダの手紙 1:2〜1:4)

ユダの手紙 1:2〜1:4の聖書解釈を書いていきたいと思います。

ユダの挨拶

ユダから手紙を読む人々への挨拶があり、続いてこの手紙をなぜ書き送ったのかがユダから述べられます。

あわれみと平安と愛が、あなたがたにますます豊かに与えられますように。
ユダの手紙 1:2

聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会

ユダは手紙の読者に「あわれみ」、「平安」と「愛」がますます与えられるように願っています。
このように手紙の書き始めにパウロは「恵み」と「平安」があるように、ペテロは「恵み」と「平安」がますます与えられるように願っています。
ユダの挨拶との違いは「あわれみ」と「恵み」ですね。
この「あわれみ」と「恵み」に共通して言えることは「救い」だと思います。

救いをもたらす神様の「あわれみ」


「あわれみ」は神様から私たち人への「態度」と言えるのではないでしょうか。神様が生まれながらに罪のある私たちに対しての「あわれみ」によってイエス様が十字架にかかったことは聖書にある通りですよね。ならば「あわれみ」が私たちの救いの基と言うことができるのではないでしょうか。もちろんイエス様の存在なくして救いが完成することはないですが!
またこの救いが神様による最大の「恵み」ですよね。生きていく上であまりにも多くの祝福を神様から受けていると思います。この命、体、心、家族、友達、仕事、あげるとキリがないぐらいの祝福が私たちの人生を彩っていることだと思います。もちろん思い出したくなく、感じたくもなく、目にしたくもない辛さや悲しみもあると思います。中には自分が受けている祝福を霞ませるような現実があることもあると思います。でも私たちが受けている「救い」はどんな現実も霞むこともなくなることもない完全で完璧な神様からの祝福です。
この「救い」と言う「恵み」を受けることができているのは神様の「あわれみ」無くしては起こりえないことです。神様の深い「あわれみ」は「恵み」となり私たちの人生の目的を変え、生活を変え、人々に神様の栄光という影響を与える存在になっていきます。

なぜユダは「恵み」ではなく「あわれみ」に焦点を当てたのか

このように「恵み」と「あわれみ」には共通してイエス・キリストを通して完成した救いを意味する言葉であることがわかったと思います。ではなぜユダはペテロやパウロと同じように救いを思い出させるために「恵み」ではなく「あわれみ」という言葉を用いたのでしょうか。
実はパウロも二度だけユダと同じように手紙の挨拶部分にて「あわれみ」があるように祈ったことがあるのです。

信仰による、真のわが子テモテへ。父なる神と私たちの主キリスト・イエスから、恵みとあわれみと平安がありますように。
Ⅰ テモテへの手紙 1:1

聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会

このように「あわれみ」があるようにとあります。Ⅱ テモテの手紙 1:1でも同じようにあります。
ユダとの違いとして「恵み」と「あわれみ」の両方があるように祈っている点がありますがここでパウロはいつもの「恵み」と「平安」に加えて「あわれみ」があるように、といいます。
なぜ「あわれみ」があるようにとパウロは祈ったのでしょうか。この手紙を受け取ったテモテがいたエペソでは間違った教えがありました。一つ前の解釈のnoteでも述べたようにユダがこの手紙を書き送った目的は間違った教えに囲まれるクリスチャンを励ますためでした。つまりパウロ、ユダ共に間違った教えのあるところに手紙を書き送り、その挨拶には共通して「あわれみ」が必要であることが書いてあるのです。この二人の共通認識として間違った教えに対して必要なことは神様の「あわれみ」を知ることだった、と考えることができます。現代を生きる私たちが正しい教えを見極める際に大切になるポイントとして神様の「あわれみ」を土台にすることができるのではないでしょうか。

私たちの「平安」

続いてユダは「平安」が与えられるように願います。これはペテロと同じ祈りであり、パウロも「平安」があるように祈っています。

主が御顔をあなたに向け、あなたに平安を与えられますように。』
民数記 6:26

聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会

聖書のいう「平安」は神様から与えられるものです。聖書には自分には平安があるといいながら平安がない人が出てきたりします。ただ単に自分が安心できるとか、平和だなとかそういったレベルではないものが神様から与えられる「平安」なのだと思います。
もちろん「平安」という言葉が使われているところは数多く存在します。なのでここでは神様が与えられるというポイントに焦点を当てたいと思います。

実に、キリストこそ私たちの平和です。キリストは私たち二つのものを一つにし、ご自分の肉において、隔ての壁である敵意を打ち壊し、
エペソ人への手紙 2:14

聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会

ここで「平和」と訳されている単語はユダの手紙の「平安」と同じ言葉です。つまりキリストが「平安」ということができます。私たちが「平和」だな〜と感じることが「平安」なのではなくイエス・キリストを感じることが「平和」であり「平安」のある状態なのではないでしょうか。イエス・キリストは私たちの罪のためにささげられました。つまり神様からの私たちへの最大のギフトがイエス様ですね。
イエス様=「平安」(「平和」)なので「平安」が神様から与えられるもの、と言えますね。

平和による支配

キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい。そのために、あなたがたも召されて一つのからだとなったのです。また、感謝の心を持つ人になりなさい。
コロサイ人への手紙 3:15

聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会

パウロはこの箇所で「キリストの平和」が心を「支配」するようにと言っています。召されてひとつの体となる、キリストの御体である教会はキリストの平和によって心を支配されている存在です。支配とは窮屈なものではなく、感謝の心を持つためにあるものなのでしょう。



「愛する者たち」へ

愛する者たち、私たちがともにあずかっている救いについて、私はあなたがたに手紙を書こうと心から願っていましたが、聖徒たちにひとたび伝えられた信仰のために戦うよう、あなたがたに勧める手紙を書く必要が生じました。
ユダの手紙 1:3

聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会

ユダはこの手紙を受け取る者たちをこの手紙の中で三度「愛する者たち」と呼んでいます。この手紙を通してみられる「警告」や「叱責」は愛するものに向けたものであり、ユダはこれらの厳しく聞こえる言葉を通して愛を表現しました、クリスチャンの愛はただほかの人たちがやっていることを感傷的に黙認するものではありません
キリストの愛(キリストの十字架)は罪の自覚によって受け取ることができると言えるでしょう。つまり愛は罪の自覚無しに受け取ることはできません。そしてこの愛は火が不純物を焼き尽くすように愛する人のうちにある全ての汚れを滅ぼすものであるべきです。

ユダが手紙を書いた理由

3節にはユダが本来書きたかった手紙について触れらています。それは「私たちがともにあずかっている救いについて」でした。彼は自らを「キリストの救いの共同相続人」とし、イエス様の兄弟だとしても例外ではなく同じ救いに預かっており、そのことについての手紙を書きたいと願っていました。「救い」とは全クリスチャンにとっての最大かつ最高な経験でしょう。
しかし、実際に書かれた手紙の内容は異なり、信仰の戦いに対しての励ますためのものでした。彼は自らの思いではなく必要に応じ手紙を書くことを選びました。主は寛容なお方です。しかしそれを口実に主に与えられたそれぞれの義務を全うできないようなことはあってはならないなと思わされます。 

「人の子よ。わたしはあなたをイスラエルの家の見張りとした。あなたはわたしの口からことばを聞き、わたしに代わって彼らに警告を与えよ。わたしが、悪い者に『あなたは必ず死ぬ』と言うとき、もしあなたが彼に警告を与えず、悪い者に悪の道から離れて生きるように警告しないなら、その悪い者は自分の不義のゆえに死ぬ。そして、わたしは彼の血の責任をあなたに問う。もしあなたが悪い者に警告を与えても、彼がその悪と悪の道から立ち返ることがないなら、彼は自分の不義のゆえに死ななければならない。しかし、あなたは自分のいのちを救うことになる。
エゼキエル書 3:17-19

聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会

ユダはこの「見張り」のような働きをこの手紙という形にしました。「愛するものたち」に愛を現すために叱責、警告を与えました。

ユダが「書いたこと」

ユダは主の思いにより、「聖徒たちにひとたび伝えられた信仰のためのに戦う」ように勧める手紙を書くことになりました。
聖徒たち、つまり教会に属する信者たちに「ひとたび伝えられた信仰」とは何を指すのでしょう。

もし同じだとしたら、世界の基が据えられたときから、何度も苦難を受けなければならなかったでしょう。しかし今、キリストはただ一度だけ、世々の終わりに、ご自分をいけにえとして罪を取り除くために現れてくださいました。
ヘブル人への手紙 9:26

聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会

この箇所にある「ただ一度」という語は「ひとたび」と同じ言葉が原語では使われています。「ただ一度」が指すものはイエス・キリストが「ご自分をいけにえとして罪を取り除くために現れた」ことです。イエス様がこの地上に来られたこと、つまりいけにえになるために受肉されたことです。
このことに対する信仰のための戦いをユダは戦い抜くことを励ますために手紙を書いたのです。

彼らはいつも、使徒たちの教えを守り、交わりを持ち、パンを裂き、祈りをしていた。
使徒の働き 2:42

聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会

初代教会における聖徒たちの土台も教えでした。使徒たちが語る福音、救いの知らせを信じ、その教えを守ることが教会の土台でした。
実際にユダが手紙を書き送った当時、教会の中に間違った教えが入り込んでいました。信仰の純粋性を保つためには「戦い」を避けて通れません。その「戦い」はキリストの十字架での救いの完成のために地上に来られたことを信じ、その信仰を守るためのものです。

教会に忍び寄る黒い影

それは、ある者たちが忍び込んで来たからです。彼らは不敬虔な者たちで、私たちの神の恵みを放縦に変え、唯一の支配者であり私たちの主であるイエス・キリストを否定しているので、以下のようなさばきにあうと昔から記されています。
ユダの手紙 1:4

聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会

前節でも触れたように当時の教会には間違った教えが教会に忍び込んでいました。堂々とではなく、こっそり忍び込んでくるわけです。つまり明らかに善意ではなく悪意を持ってのことでしょう。

しかし、御民の中には偽預言者も出ました。同じように、あなたがたの中にも偽教師が現れます。彼らは、滅びをもたらす異端をひそかに持ち込むようになります。自分たちを買い取ってくださった主さえも否定し、自分たちの身に速やかな滅びを招くのです。また、多くの者が彼らの放縦に倣い、彼らのせいで真理の道が悪く言われることになります。
ペテロの手紙 第二 2:1-2

聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会

この手紙との多くの類似点のみられるⅡペテロの手紙では「滅びをもたらす異端」がひそかに持ち込まれること、また多くの者が「彼らの放縦に倣い」とあります。ユダの手紙においても忍び込んできた「不敬虔」な者たちの「放縦」について書かれています。

不敬虔と間違った教えによる「放縦」

というのは、不義によって真理を阻んでいる人々のあらゆる不敬虔と不義に対して、神の怒りが天から啓示されているからです。
ローマ人への手紙 1:18

聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会

聖書の中に何度か不敬虔な者たちに対する裁きについて言及している箇所があります。この箇所はそのうちの一つであり、ここにあるように不敬虔な者たちの現れとそれに対する神の怒りが啓示されるとあります。神は不敬虔な者を必ず裁かれます。

彼らは貪欲で、うまくこしらえた話であなたがたを食い物にします。彼らに対するさばきは昔から怠りなく行われていて、彼らの滅びが遅くなることはありません。
ペテロの手紙 第二 2:3

聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会

また、ユダの手紙、ペテロの手紙のどちらもが触れている「放縦」についても先ほどの第二ペテロの手紙の引用した箇所のすぐ後ですが裁きが行われること、またその裁きが昔から怠りなく行われていると書かれています。
旧約、イエス様の教え、使徒たちの教えの中にも偽教師の到来について多くの警告があります。よってこのように忍び込んできた者による教会の内部からの崩壊は驚くことではないのでしょう。いかにしてこのような崩壊を防ぐこと、また教えを見極めることが重要なことなのかを学ぶ必要があります。

「放縦」は度々「好色」とも訳されることがあります。アリストテレスの倫理学の中では「好色」は「抑制されない悪徳」を意味します。つまり「放縦」、「好色」は肉の欲のままに生きることです。不道徳の中でも頂点に位置づけることもあるのがこの「好色」です。
肉による放埒主義においてはパウロとペテロは何度か(ローマ 13:13、ガラテヤ 5:19、Ⅱ ペテロ 2:18など)言及しており、ヨハネも黙示録 2:20-24にかけて一度赦されたという事実を受けてもなお聖さに背いてしまうことがあることを書き残しています。
主の赦しとその寛容さを口実に肉のままに生きるのではなく、ユダがこの手紙を主の御心に沿って記したように私たちも主の心に叶う歩みを目指したいものですね。

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