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m_gori
ある人の悪口を言いつつ同調を求めてくる人が、次の日にはその人に対して良い顔をしており、会話に付き合ったこちらだけが感情の置いてけぼりを食らう局面が、時折発生する。
最近でこそあまりそういった場面に遭遇する機会はないが、極端に人が人の悪口を言っている時は、不用意に乗っからず正直話半分で聴いている方が吉である。経験上ろくなことがない。
だいたいそういう人は外面が良すぎる傾向がある。外面を駆使しまくることで、自分が自分自身で醸成したストレスを、簡単に人や周りの環境のせいにする。目の前の人間に、今自分が置かれている環境や自分が不遇な仕打ちを受けたかを大プレゼンし、全力で同情を誘いにかかる。これも一つの「マーキング意識」なのだろう。
これの怖いところは、いかにそれが一方の意見のみだ、とわかっていながら、それでもやはり悪口の対象に対し偏った印象を抱いてしまうこと。こうしたものは、ある種人から伝え聞く方がしぶとく意識の根っこに残り続けるので、内容によっては、当事者よりもその人への悪印象が強まる恐れもある。
どれだけ "認知バイアス(思い込みによる非合理判断)" の存在がわかっていてもそうなるのだ。だからこそ、僕はそもそも誰かが誰かの悪口を放つ現場に極力居合わせない努力をする。
共犯意識を持たされたくないというのももちろんだが、冒頭で述べたとおり、こちら側に無責任な感情のパスをされたあげく、次の日には手のひらをくるりと返すかのごとく対象者へ良い顔をしている光景を目の当たりにし、無駄に疲弊したくないからだ。
今日はこんなところで。
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