「鰯の頭」に僕が求めているもの
「鰯(いわし)の頭も信心から」と言う言葉がある。
僕はこの言葉が好きだ。
<< 鰯の頭も信心から >>
イワシの頭のようにとるにたらないものでも、信ずる気持ちがあれば尊いものに見える。 信仰心の不思議さをたとえた語。
少し前に、「"祈る" という行為は、願いを叶える叶えないとは別のベクトルで、まずは感情のコントロールが叶う」という事を書いたが、あらゆる要素が複合的に絡み合い、感情が整った状態へ人を押し上げるにあたり、この「鰯の頭も信心から」も一つの大事な要素なんじゃないかと思っている。
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うちには神棚や仏壇はないが、自分の部屋に小さな "祠(ほこら)" のような場所を設けており、生活の節目ごとにそこに向かって祈っている。
置いてあるのはお札やお守り、おばあちゃんから戴いたポチ袋だったりご当地人形の陶器だったり、統一性も特にないのだが、そこに自分なりのルールで、自分だけの神聖な箱庭を作ったことで、ある種の愛着も湧き、結果的に心を鎮め、自分だけのパワースポットとして機能させることが叶っている。
偶像崇拝の類なので、たとえば「鰯の頭」が推しタレントやミュージシャン、アイドルなどでも一定の効果はあるかもだが、偶像側に意思があると、その人の行動によって何かと心を振り回されてしまい都合が悪いので、やはり「物」を起点とした方向性で考えた方が良いと思う。
※メンターや死後の人物などとはまた別の話
こうした「鰯の頭」を自分で作る行為は、コスパが高い。
新興宗教を否定する訳ではないが、高いお布施を取られまくって教祖という他人に祈ってもらうよりも、自己の潜在能力をあくまで自分自身の "内面への問いかけ" から引き出す、原始宗教に準じたやり方の方が自分には相性が良いと感じている。
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「願いが叶っている」状態を多くの人は求める。
しかし、きちんと突き詰めると僕たちは、究極のところ「願いが叶った時に味わう感情を得る」事を実際は求めていると思う。
祈る事で内側を見つめ、外側に振り回されず心の平穏を適宜維持する事が「ニュートラルな状態」を自然に作り、短絡的な自我を抑える事で、結果として願いが叶う体質を手に入れるんじゃないだろうか。
鰯の頭は、僕にとってそのための絶妙なプラシーボシンボルだ。
今日はこんなところで。