孤独なんて、何ひとついいことがない。
ずっと友達がいなかった。
学生時代は関西学院大学という、ちょっといい感じのキャンパスに通っていたのだけれど、腹を割って話せる友達が全然できなかった。
外国から来た先生に「ここはリゾートのようだね」と半分揶揄されたくらい理想的なキャンパスで、うらやましいほど学内カップルも多く、同じ学部に500人も同期がいたからひとりくらい親友が見つかっても良さそうだったのに、誰とも心を通わせられなかった。
もう入学早々からダメで、1回生のときの最初の基礎ゼミメンバーからしてまるで友達になれなかった。それもそのはず、みんながお昼休みに学食で楽しくランチを食べていたころ、僕は原付を飛ばして自宅に戻り、ひとりで「笑っていいとも」を見ながらチキンラーメンを食べていた。なぜかみんなと学食に行く気になれなかった。
今にして思えば「ビッグパパ」という名の学食で300円もしないような定食をみんなと一緒に食べることの何が無理だったのか本当に忘れてしまったのだけど、とにかくあのときは孤独だった。何かを拒絶するように、自ら孤独の道に突き進んでしまっていた。
サークルはいかにも大学生らしくテニスサークルに入った。幹部の学年になったころにはキャプテンに任命されたのだけど、他にできそうな役職がなかっただけで、サークルのメンバーとは最後まで心を通わせられなかった。
今でこそ同期はたまに顔を合わせるけれど、当時は自ら進んで入ったサークルのくせに練習に行くのがとにかく嫌で、そのあとの飲み会に行くのがもう本当に嫌で。
先輩方や後輩たちが居酒屋で裸になって輪になって校歌を高らかに歌い上げるのを馬鹿馬鹿しく思いながら、ろくに飲んでもいないお酒でつぶれたふりしてお店のすみで寝転がっていたくらいだった。
今にして思えば、みんなとお酒を飲んで(裸はともかく)輪になることの何が無理だったのか本当に忘れてしまったのだけど、もしかしたら格好つけていたのかもしれない。朱に交わらないぞ、とでも言いたげな屈折した自尊心に満ちていたから、先輩方には好かれないし、後輩たちには慕われなかった。一応、キャプテンだったのに。
ただ、このままでは人としてダメかもしれないと思ったこともあって、あるレストランを貸し切りで開いたサークルのクリパで、当時熱心に制作していたミニコミ誌(今でいうZINEですね)を改めて自己紹介代わりにみんなに配ったのだけど、お開きになったテーブルの上にくしゃくしゃに丸めて捨てられているのを見たときは「時すでに遅しか」と肩を落とした。
それはそうで、年の瀬の楽しいクリスマスのパーティー会場で今さら「自己紹介」する自分が浅はかで空気の読めない独りよがりの大馬鹿野郎であったことに、当時は気がつくことができなかった。
迎えた就職活動も惨憺たるものだった。業界の動向や志望する会社の研究もろくにせず、ただ自分のしたいことができそうな狭き門の有名企業にばかり応募した。幸いエントリーシートは通過するものの、面接となるとからっきしダメだった。
面接に呼ばれたら梅田から新宿まで夜行バスで向かうのが通例だったのだけれど、それで体が疲れるのが良くないのではと膝を打ち、新大阪から新幹線で行ってみたり、伊丹から羽田までスカイマークで飛んだりしてみたけど、それでも面接は通らなかった。問題なのは移動手段ではなかった。
今にして思えば、もっとゼミの同期と情報を共有し合い、業界や企業のことに明るくなって、自分の長所や短所を客観的に分析しながら互いに切磋琢磨し合えばよかったのだけれど、このときもやっぱり孤独が災いした。
一度だけゼミ生を何人か自宅に呼んだことがあった。
各業界や仕事の魅力を挙げて、誰が何に向いているかをざっくばらんに話し合ったのだけど、誰かが「コンサルやるのもええなあ」と口にしたときに「コンサルってなに?」と訊いたら、お前就活生のくせにコンサルも知らんのかと一気に場がしらけて、以降は誰も話を聞いてくれなくなった。ここ、僕の自宅なんですけど。
そんな調子で就活はダメ。就職浪人したけど、2年連続で内定ゼロ。
1回生のころに短期留学したカリフォルニアのパシフィック大学で取得した単位の「認定」について自分と学校の間で食い違いがあり、卒業式の間際になって「単位不足で卒業できない」と告げられたこともあって、そのときもなぜ一緒に留学したメンバーと情報共有しておかなかったのか悔やんでも悔やみきれなかった。
と、いろいろあって無事に卒業自体はできたものの、誰に入れられたわけでもない孤独の檻に閉じこもってる若造をひろってくれる会社はあるはずもなく。しょうがないから在学中からほそぼそと始めていたフリーライター業をそのままやって生きてくか、ということになった。
社会のいろはを知らない人間がいきなりフリーランスで仕事を始めると、まあ孤独を極める。
とある商社の方に見初められ、しばらく付き人のような毎日を送っていたから常に「師匠」と一緒にいたのはいたのだけれど、同期も(そもそも気の置けない友達も)いなかったから、本当に社会人としてどうふるまったらいいのか分からなかった。
あるとき何か至らぬことをやらかして、バーで師匠にこんこんと詰められたのだけど、正座して耳を傾けなきゃいけない場面であるにも関わらず、空腹に耐えきれずひとりもぐもぐソーセージを頬張ってしまい、2時間説教し終えた師匠に「俺の食べるもんが一本もないやないか」と呆れられたくらいダメな社会人1年目だった。
師匠の話も真面目に聞けず、孤独を極め、思考もどんどんわがままになり、果ては「映画館を作りたい」と言い始めた。いや、突然で申し訳ない。
当時住んでいた兵庫県は西宮市には映画館がひとつもなくて、今みたいにネトフリもアマプラもないもんだから、いちいち梅田か三宮に行かなきゃいけなかった。
阪神・淡路大震災で最後の映画館が半壊してしまった経緯があるからなのだけど、よそからきた人間はそんな事情もつゆ知らず、ただ「チャリで行ける範囲に映画館がほしい」「だから自分で作りたい」などという身勝手な妄言をホームページで発表し始めた。
それを読んだ人から「西宮にもう一度、映画館の灯を」といった趣旨のシンポジウムがあるからパネラーとして登壇しないかと声をかけられ、よくもまあ恥を知らずに引き受けたなと今となっては思うけど、市内最後の映画館主だった方や地元で著名な文化人の方に交じって「この街には映画館が必要なんです!」などと学生あがりの若造が力説することになってしまった。
そうしたら話を聞きにきていたひとりの女性から「一緒に上映会やらない?」と声をかけられた。すぐに意気投合してチームを立ち上げ、賛同してくれるメンバーも10人ほど集まって、ヨットハーバー前の見晴らしのいい公園で野外上映会を開催した。資金はフリマで捻出し、市の許可も得て、映画館建設に向けた第一歩を踏み始めた。
このとき結成した「シネギミック」という名のチームは最終的に30人ほどの規模になった。季節ごとに年に4回、市内各地で上映会を開催する精力的なチームに成長し、地元の方々を巻き込みながら映画館建設の機運を盛り上げていった。政治家と関わることも、危ない筋に目をつけられたこともあった。
所属メンバーは普段、会社や役所で働く人たちや学生もいて、定期的に土曜日やときに平日の夜にも集まっては、夢に向かって持てる力を互いに本気でぶつけ合った。
このときミーティング後に必ず開いていた飲み会が本当に楽しかった。学生時代は「早く終わってくれ」と薄目で時計を見ながら酔ったふりして寝転がっていたくせに、飲み会が楽しいと思えるなんて自分でも驚きだった。
同じ目標を共有し、それに向かって一緒になって突き進むメンバーは友達を通り越して戦友と言えた。だからみんなとお酒を飲んで、笑って、裸にも輪にもならないけれど、心の距離が近づく時間が尊かった。
このころからかもしれない、孤独はダメだ、仲間はいいぞと思えたのは。
そういうのはもっと早くに目覚めておけよと今となっては情けなくも思うのだけど、あのとき、あのメンバーと出会ってなかったら、今も屈折したままチキンラーメンをひとりですすっていたかもしれない。「笑っていいとも」は終わってしまったというのに。
その後も上映活動は続けたものの、残念ながら自分たちの手で映画館を建設するには至らず、代わりに大手資本が街に入って立派なシネコンがオープンし、いろいろあって僕は関西を離れた。
そうして移り住んだ東京でフリーライターをほそぼそと続けながら、リーマン・ショックをきっかけに「ハイモジモジ」という名の文具メーカーを立ち上げたのだけど、小さな会社を経営していて痛感するのはやっぱり「仲間は大事」ということに尽きる。
これは文具業界に限った話なのかは定かじゃないけど、とにかくメーカー間の風通しがいい。別の業界から転身されてきた方が「こんなのあり得ない」とおっしゃっていたくらい、同業他社間で不思議なくらいライバル意識が希薄だ。
だから損得なしに平気で取引先を紹介し合うし、いいニュースはすぐに共有し合う。みんな会社の規模がそれほど大きくない者同士だから余計に仲間意識が働くのかもしれないけれど、みんなで励まし合って生きている。ときにはプロジェクトを組む同志になったりもする。
3年ほど前だったか、僕の不徳の致す発言でツイッター界をにぎわせ、一時トレンドのトップになるほど燃え盛ったことがあるのだけれど、そのときも「お前は大丈夫だ」「法を犯したわけでもないだろう」「ネットでキモいと叩かれてるけど、ただキモいだけだ、何も間違ってないぞ」とメーカー仲間が全力で応援してくれた。
わが事のように受け止めてくれ、ある人は弁護士を紹介してくれた。ある人は鎮火のプロを紹介してくれた。ある人は「誹謗中傷は良くない」ということでツイッター社に何度も通報してくれた。元気づける電話をかけてきてくれた人もたくさんいた。
それでもしばらく業火は収まらず、うすうす気づいていた自分のキモさを受け止めて生きていくしかないぞと、春の公園で嘆息しながら顔を上げた。空はとことん青かった。
そんなときに手を差し伸べてくれたのもやっぱりメーカー仲間で、渋谷にある「東京カルチャーカルチャー」をステージにした「文具祭り」というイベントで大反省会を企画してくれた。
何の因果か厄年(しかも本厄)に燃えに燃えたその身をお焚き上げしようじゃないかと明るい場を用意してくれ、思いの丈をぶちまけられる貴重な機会を得た。
ことの経緯を話したら、みんな大いに笑い飛ばしてくれた。心の底から救われた。本当に仲間がいてよかったと思った。
何度も繰り返すけれど、仲間はいいものです。そして、孤独は何ひとついいことがない。群れたほうがいいという意味ではなくて、個々が自立しているべきではあるのだけれど、自立は孤独とイコールではなくて。
互いに認め合い、互いに励まし合い、互いに同じ時代を生きていく、そういう存在が近くにいるほうがきっと人は幸せだろうと思うんです。かつて孤独の沼でひとりで溺れていた者として、強くそう思う。
いま、核兵器の使用をほのめかす権力者がいる。すでに奪われたひとりひとりの尊い命は取り返しがつかなくて、このやるせなさをどこにぶつければいいのか悔しくてしょうがないのだけれど、ひとつ思うのは「独裁者もきっと孤独なんだろう」ということ。
腹の底から信頼できる仲間がいなくて、損得でしか人と付き合えなくて、野望を果たすのに目障りな敵と無能(に見える)部下しか周りにいなくて、市井の民には理解しがたい孤独感を強めているんだろう。そんな気がする。
いや、吹けば飛ぶような個人事業に等しい会社をやりくりしているに過ぎない人間が大国に君臨するトップの心情なんて分かるはずもないのだけれど、そこに強めの孤独感があるんじゃないかという想像くらいは働く。
孤独なんて、何ひとついいことがない。賭けてもいいけど、まったくない。
だから友達をつくろう。仲間を見つけよう。いつか親友と呼べる人に出会えたらいいよね、と思う。
自分がへまをしても笑ってくれて、叱ってくれて、そばで一緒にチキンラーメンを食べてくれる。そんな人がひとりでもいてくれたら、それだけで幸せじゃない。
【という話につながるお知らせ】
文具と雑貨のメーカー有志で立ち上げた合同展示会「FRAT」第4回が7月6~7日に開催されます。現在、出展者を募集しています。(締め切りは3月15日)
「顔の見える作り手」が小売店のバイヤーさんと出会える年に一度の機会です。出展者同士で一生涯の仲間になれる場でもあります。法人、個人は問いません。
出展概要を確認されたい方、仲間になってもいいよという方は、下記の公式サイトからお問い合わせいただけたらうれしいです。もちろんハイモジモジも出展します。