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雪だるま

 立派な雪だるまを作れる人はみんな雪国の出身だ。日本にいた頃は、そう信じてやまなかった。ところがアイスランドに来てみれば、出身国では一度も雪を見たことのなかった人が、美しい雪だるまを見事に作りあげているではないか。ただ自分に雪だるま作りの才能がなかっただけなのだと結論付けられるかもしれないけれど、雪だるま作りの才能って一体なんだ、と指摘せずにはいられない。

 美しい球体に雪を固めるのでもなく、自分の持ち上げられる限界の大玉を作ることでもない。むしろ自重で崩れそうな鏡餅が無造作に積み上げられた(ように見える)雪だるまこそ、つい触れたくなる。うっかり触れると瓦解するかもしれないので、距離を置いてじっと見ている。が、やっぱり我慢できずに触って、さらに軽く押してみると、見た目に反した強度があるのだと感心する。

アイスランドの首都レイキャヴィークのチュルトニン湖が凍ると、どこからかやって来た人々がその上を歩いて横断したり遊ぶ姿が観測される。1月の或る日、湖上に雪だるまがいた。

 自分の求める雪だるまをいくつか頭の中で比較したところ、どうやら顔と最低限かつ充分な<衣装>を除くと、すべて白い雪でできていないといけないらしい。そういえば、小学生の時分の挑戦で出来あがった雪だるまには、土や石が入り込んでしまっていた。不純物が入るのは手袋をつけているからと思い、素手で手を赤くしながら雪玉を拵えては、やっぱりどこかちがう、と目の前の雪だるまと同じように顔をゆがめて泣きたくなったことも何度かあった。

 作業場に充分な雪嵩ないときは、雪玉を転がすときは慎重に行わなければならない。形の不出来は愛嬌でも、雪以外のものが入っていることを趣きとして受け入れる度量を持ち合わせていないため、一度二度、ゴロンゴロンと転がすたびに雪の白さを確かめる。雪玉を転がすことも不得手なので、あまりに細長くならないようにと気をつける。すこしずつ白い塊ができたら、これを何段の雪だるまの何段目にするのか考える。完成図を頭のなかで描けたら、それに合わせて新しい雪玉を作りはじめる。

 もう頭のなかでは三段の雪だるまが二体と、二段の雪だるまが三体できた。あとは実際に手を動かすだけだ。でも、最近のレイキャヴィークでは雪が降ってもあまり積もらない。いくらか積もっても、翌日に雨が降るなどしてすぐに融けてしまう。すこし前に雪が街中でもかなり積もったときは、大雨の郊外にいた。帰宅すると、近所の小さな匠たちがすでに雪だるまとかまくら――除雪された雪だまりに穴をあけたもの――を作り終えていて、足元には薄く表面が融けたあとに再び固まった氷しか残っていなかった。ただ、あまり残念とは思わなかった。

 冬が好きだ、雪が好きだ、と思ったのはアイスランドに越してきてからだ。冬になる度、幼少の頃を思い出す。真っ白な雪に向かうとき、どこか昔の自分を見守るような気持になる。話しかけることはせず、ただじっと見守るだけ。そして、その横で自分も同じことをしてみる。かつての自分に手本を見せるようだなんて思い上がりはしない。雑に思い描いた完成図は、雪に触れればあっという間に白紙に戻ってしまう。今この瞬間の手の感触がすべてになるのは、今でも大して変わらない。せいぜい身体が成長したせいで、否応なしに俯瞰する目線を持つようになった――視界に色々なものが入り込むようになった――くらいだ。

向かい合わせか、背中合わせの雪だるま。
ひとりで二体とも作ったのか、ふたりで一体ずつ作ったのか、それ以外かも分からない。

 ところで、今は作った餡子を牛皮のなかに丸め入れている。雪玉作りの極意を教えてあげよう!と言ってくれた心優しき小さな巨匠に「これが私の雪だるまです」と持って行くつもりだ。

文責:朱位昌併

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