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祖母の看取り


先日祖母を天国へお見送りしました。
住み慣れたお家で、家族に囲まれながら。

おばあちゃんらしい、最期でした。

自分たちで人を家で看取るという経験は、祖父に続いて2度目。

祖父の時は突然だったから、母と泊まり込んで看病した。
病院で多くのかたを看取ってきたのに、いざ自分が当事者になり、
しかも家でとなると戸惑うことがおおかった。
介護の方法、介護の経験がない家族でどう協力するか、どこまで医療処置を施すかなどの選択など。


ただ今回の祖母の看取りは、祖父のときとは少し違っていて、
それはこの数年祖母と暮らしを共にしていたということ。


足が思うように動かなくなった祖母はなんとか押しぐるまで最後まで自分で歩いた。
そんな祖母の日課は1日に1度だけ午前中10時ごろに庭に散歩に出る。

隣に住んでいたので、祖母が出てくるかどうかは祖母自身であったり
その日の天候のバロメーターにもなっていた。

それほどに自然のリズムや自分の体と調和して生きていた人でした。



「私に注がれる恵みは無限・・・」

祖母が付けいてた5年日記に記されていた言葉。

恐らく散歩に出た時に、庭の木や花を見て、お日様の光を浴びて、その日の風に吹かれた、感じたんじゃないかと思う。


祖母は愚痴ひとつ言わず、その分自分にも他人にも厳しい人でした。
でも、だからこその美しさがあって
普段は口にすることのない家族への気遣いや感謝が
日記には山のように記されていて。


生前からの自分の望む葬儀を記し
自分の信仰と証を記し
周りへの感謝と自分の人生への満足を伝え


口では多くは語らなかったけど、
その、余白で多くのものを遺してくれた祖母でした。

こうやって私も記しながら、また涙がでそう。


祖母と祖父が長年愛した家を大事にできたこと
祖母と暮らしの時間を共有できたことが
私の人生にとってかけがえのない宝だと
祖母の死を通して感じられたことがよかった。

そしてその暮らしの中で祖母は
人が老いていくとはどういうことなのか
わたしたちに示してくれた。


祖母は最後の数日だけ寝たきりになり
私が帰ろうとしたタイミングに
人生の終わりを選び
家族みんなに囲まれながらの最後の呼吸

最後の最後まで祖母らしくて。
わたしはこんな死に方できるのだろうか。

それなのに、
徐々に心も含めて準備してきたはずなのに、
なんて人の最期は呆気ない

もっと、もっとと思ってしまう。
そんな余韻に浸ってもいます。


暮らしの中にいのちの営みがあるならば
暮らしの中にいのちの終わりもあるはずで。

人のいのちは有限でいつかは終わるということ。
命が絶えて冷たくなっていく祖母の側で
そんな当たり前のことに胸が引き裂かれそうだった。

有限の時間をどう生きたいのか
愛する人たちとの時間はより愛しく

そんなことを
いとも簡単に当たり前になってしまう日々の時間の片隅におきながら

これからの選択をひとつひとつ大切に
祖母が蒔いてくれた種を大事に
これからも暮らしていきたい。

日差しも風も、すっかり秋めいて
これから冬が始まってゆきます


床に臥す祖母の歌いし賛美歌の聞こえぬ庭先秋風涼し


おばあちゃん、大切な時間を
ほんとうにありがとう。

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