土下座前で待ち合わせ【嵯峨野ぐらし50】
京都河原町界隈の待ち合わせ場所といえば、今はどこが人気なのでしょうか? 携帯電話やSNSのおかげで、わざわざ「待ち合わせ」しなくても現地集合する人も増えただろうし、駅には必ずあった「伝言板」なんて全く見かけなくなりましたよね。私が今の妻と結婚する前のラブラブだった頃(30年以上前)は駸々堂書店(のちに倒産、現在ミーナや京都ゆにくろがあるところ)で、よく待ち合わせしてました。上階は映画館の京都宝塚劇場やスカラ座だったし、デートには最適の待ち合わせ場所でしたね。(会社の知り合いによくデート現場を目撃されるのが弱点でしたが・・・・・・)
「河原町 待ち合わせ」で検索してみると、エディオン前(昔の阪急百貨店前)、阪急や京阪や地下鉄の駅改札前(特に京阪の祇園四条や地下鉄市役所前は改札が1ヶ所しかないから間違えなくていいですよね)、南座前(現在は外国人向英語ガイドツアーの集合場所になってるらしく、夕方は南座前や出雲の阿国像前は欧米人であふれかえってます)に加えて、今もミーナ前が人気のようです。
でも一方で、昔はポピュラーだったのに今は寂れた待ち合わせ場所というのもありまして・・・・・・
「土下座前」
知らない人にこの場所を説明するときは、京阪電車の三条の駅の地上の、路面電車が駅から三条通に出てぐいーんっと曲がるあたりに、おっさんが土下座してる銅像があるねん。行ったらわかるわ! と言ってました。初めて聞く人は「土下座? そんな銅像があるかい!」と思いがちですが、いやそれがあるんですよ、土下座してるおっさんの像が。
ただ、路面電車(京阪京津線)も地下鉄になり、地上駅の跡地がだだっ広い駐車場になってしまった現在、わざわざこんな所で待ち合わせする人はおらず、待ち合わせ場所の定番からは完全に外れてしまってます。
ところで、この銅像の人は誰やねん? なんで土下座してんねん? という話ですが…
このおっさんは高山彦九郎(1747~1793)という、現在の群馬県太田市出身の武士で、津軽から鹿児島に至るまで、全国を旅して尊皇攘夷の思想を広めて回ることに命をかけ、吉田松陰ら幕末の勤皇の志士と呼ばれた人たちに大きな影響を与えた人物です。京都に出入りするときは必ず、東海道の起終点でもある三条大橋のたもとのこの場所で、皇居(今の京都御所)の方角を向いて遥拝したとされており、その様を像にしたものだそうで、決してヤクザ者にからまれて土下座して許しを請うているのではありません。歴史の世界では、林子平、蒲生君平とともに「寛政の三奇人」と呼ばれているそうですが、ここでいう「奇人」というのは「優れた」という意味だそうで、決して「多くの通行人がいる東海道のど真ん中で土下座をしているちょっとイカれた人」という意味ではないらしいです。知らんけど。
ちなみに、初代の像は1928年に昭和天皇即位の御大典を記念して作られましたが、1944年には「天皇陛下に報いるために溶かされるなら、彦九郎も本望だろう」という、当時の思想が反映されたのかどうか、第二次大戦の金属回収令で供出され溶かされてしまいます。現在の像は1961年に彫刻家 伊藤五百亀によって復活制作されたものです。(復活させるならば、あえて土下座にしなくてもよかったやろ!)
ついでに、コロナ禍の2020年4月には、何者かにより彦九郎像にマスクを着けられるという「いたずら」が発生し、話題になりました。でも、その頃って、太秦の大魔神像や不二家のペコちゃんもみんなマスクしてましたやん。
彦九郎は1793年、現在の福岡県久留米で、世話になっていた医師宅で切腹し、その生涯を終えます。享年46歳。自害した原因についてはよくわかっていませんが、一説には京都の公家からの密命を受け、薩摩藩へ反幕府活動に加わるように説得に行ったが不調に終わったうえ、鹿児島を出てから幕府の隠密に尾行監視されていたことより、このままでは京都へも帰れないと追い詰められたためだとされています。
皆さんもたまには「土下座前」で「待ち合わせ」してみてはいかがでしょうか? 今だったら、他に待ち合わせしている人もいないので、迷うこともないですよ。ではまた。
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