4.三重県|フィルムで47都道府県一本ずつ撮る旅
後にも先にも、父とふたり旅の様相を呈したのはこの時だけだった。
(まだ全然元気に働いているのでこれからの可能性を0とするのは失礼かもしれないけれど)
母とふたりは家を出た今でもあるが、父とはこれからもない気がしている。この時も、本当にたまたまふたりになったのだ。
コロナが依然猛威を振るっていた頃に、地元関西に住んでいる友達と日帰りで伊勢なら行けるんじゃないか、という話になった。
でも、直前というか当日に、「やっぱりだめって言われた」とLINEがきた。県外に出ること自体がNGとされたのだったか、東京在住の私と1日行動を共にすること自体が許容できないものだったのか。細かい理由はあまり覚えていないけど、泊まりすら普通に許可される我が家のルールが、当時だいぶ緩い方だったことは間違いない。
「まあ、そういうこともあるか」と、落胆こそすれ、ドタキャンを責める気にはなれなかった。そういう時節だった。
ただ、手元に往復夜行バスのチケットはある。
バイトの出勤にちゃんとカメラも持ってきた。
何より、もう旅の気分だった。
「〇〇、やっぱだめって言われたらしい」
「夜行キャンセル料かかるし、一人でも行こうかなあと思ってる」
一応報告まで、母に連絡を取った。
散々夜行バスで関西まで帰省して(実家ごと東京に移動しているので、関西に遊びに帰る時はホテル住まいだった)いて、今更ダメと言われることはないと踏んでいたのと、帰宅してから話をするのに嘘を織り交ぜるのは億劫だったから、素直に。
そしたら、「えー!一人寂しいやん😭」「でもママバイトとテニスあるわぁ」いいよ大丈夫だよついてこなくて、と返そうとしたら、
「あ!パパ暇ちゃう!?」
何を言ってるんだ。
別に普通に仲はいいが、急にそんな父とふたりで旅行と言われても。
私が好きなことするだけですが、、、
しかも夜行バスで行こうとしてるけど、50を過ぎたおじさんには堪えるんじゃないのか。20歳の体力を余すことなく活用した、夜行バス名古屋着→近鉄で伊勢!という移動だけで12時間以上かけてるような行程なのに。
という説明をする間も無く、「え、夜行バスやで」と返した次のLINEで「行けるって!」と送られてきた。「パパの夜行バスも取ったって(取ってあげて)」と。
え、マジ?と思いながら手配して家族LINEに展開することしばらくして、父から👍マークのスタンプが飛んできた。
24時の新宿駅、本当に父が現れて笑ってしまった。
前段が長くなった。まだ全然三重県についていない。
夜行バスは愛知に着くから、朝ご飯はどうしても愛知の純喫茶文化、定番モーニングの「小倉トースト」が食べたくて、朝7時から全く理解していなさそうな父を引っ張って並びに行った。
トーストの上に、餡子とクリームと、色とりどりのジャムが添えられていて、是非ともこれをフィルムカメラで押さえたかったが三重県で1本撮るという目的があったので我慢。
そのまま名古屋駅に戻って、近鉄に乗って、いざ伊勢へ。
この日はとっても光が綺麗で、柔らかくて。
冬にはなりきっていないけど、もうコートの季節で、でも外を歩くのが怖くないような。
先にお参りを済ませてから。
伊勢に来たら買おうと思っていた御朱印帳も手に入れて。
コロナ禍もあって御朱印はほとんど書き置きだったけど。
全部が大きくて、建物も、自然も。
「お伊勢さん」「伊勢神宮」と呼ばれているが、正式名称は「神宮」らしい。総本山が過ぎる。
息を吸ったら吸った分だけ入ってくる感じ。
空気が綺麗なのはもちろんのこと、なんかパワーがある気がする。
重たくはないけれど、ピント張った圧のようなものが巡らされている感覚。
気圧されていたのか、神宮内の写真が全然ない。
もちろん、おかげ横丁の散策も。
なんとなく散策しきったら、あとはまた名古屋から夜行バスに乗って帰るので、近鉄へ。
オレンジでも黄色でもなく、とっても柔らかな金色だった夕暮れの光景。
名古屋に戻ったあとは、味噌カツの店に父を引っ張って行って、名古屋城周りを散歩して、最後はカフェで時間を潰していた。
何をしたか、4年経った今は全く思い出せなくて、写真フォルダを遡った。
なんの話をしたかも覚えていないけど、覚えていないような話をできるだけの関係性が父との間にあるのだということが、ほんの少し驚きだった。
専業主婦の母と、家を空けがちな父。
どうしても、お金は父が出してくれているが、育ててくれたのは母である、という感覚が強かった。
でも、小学校の高学年では月の半分出張していて、中高の6年間を単身赴任していた父に、特に放置されていると感じたことはなかった。それがそれなりに凄いことなのだと、社会人を少し過ぎた今わかり始めてくる。
よく口出ししては両側から返り討ちにあっていた母娘喧嘩も、私の母への反抗期もずっと付き合ってくれていたのだ。3時間かけて帰ってくるのも憂鬱だったろうほど悪い空気のときもあったのに。
そんなに父に向けて雑談をした記憶もないが、私がその時何をしているかは知っていて、中学の部活の試合も見に来ていた。
どっちでもいいのに、むしろ来なくてもいいのに、と思っていた些細な一つ一つの積み重ねを、父が怠らずにいてくれたのだと、この歳になって沁みた。
思い出しても、なんとなく穏やかな気持ちになる旅だった。