才能とはなにか。
問い『才能とはなにか』
自分は才能があるのかどうかと悩んだことがあるのは僕だけではないと思います。
そのなかで『才能』ってなんだ?っていう疑問にぶち当たるのもあるあるだと思います。そして、才能人はそもそもそんな疑問を持つ前に成果を上げるので、こんなことを疑問に思っている時点で凡人なのだろうと絶望するのが普通なわけですが、さて。
ちなみに『才能』というのを辞書で引くと
らしいですね。
辞書で引くって大事なことで、頭の良い人ができる限りフラットな解釈にしてくれているので、悩んだら言葉を調べるのはいいですね。
僕らは無邪気に言葉を歪めて生きているので。
しかし、『物事を巧みになしうる生まれつきの能力』ということは、やはり先天的に持っているもののことなんですね。
逆に言えば、後天的には身につかないと。
このあたりって絶妙ですよね。
だって、どんなジャンルでも最初は全くできなかった人間が練習し続けて、目覚ましい結果を残すことだってありますし、どこかで覚醒した人だっています。
逆に練習を全くせずに結果を残し続ける人間なんてほぼいないでしょう。
まぁ『なしうる生まれつきの能力』と書いているので、あくまでも可能性を内包しているというだけで、その能力だけで結果を残せる保証があるわけでもないってことですね。
まぁこんなことを書いていくと、結局はトートロジー的な曖昧さに終わってしまいそうなので、ここからはもう少し解釈に入っていこうかなと思います。
解釈:『才能とは興味を持てること』
これは僕の解釈ですが、先述の辞書的定義とも離れていないので少しは説得力があるかなと思います。
僕は主観的な世界のなかでは、そこまで才能目覚ましい人間というわけでもなく、むしろどのジャンルにおいても自分より優れた人間を多々見つけて、才能のなさを理由に挑戦をやめてきた人間ですが、そんな凡人にすら及ばない僕が才能人たちとの根源的な違いを探っていくと『興味』というところにたどり着きます。
いつだったか『好奇心とは才能である』と誰かが言っていた気がします。いや、今自分が勝手に思いついた気もしますが、さて。
一応、興味についても辞書を引きましょう。はい。
興味と興って重なるんですね。個人的な感覚だと、2の関心が主たる意味かなと思ってたんですが、少し歪みがありましたね。
そして、3は面白いです。『主観的に選択しようとする心的傾向』、主観的というのが良いですね。能動的でもなく受動的でもなく、主観的に選択をする。
ここでは、この『主観的に』というのが超大事になってくる気がしますね。
『主観的に』ということは客観性を伴わない、ということであり、つまり完全に個人の中で完結した価値を見出すということなので、たしかにそれは『興味』という言葉に内包されているように思います。
これも僕の主観的な感覚ですが、『興味』というのは意識の上にある存在だと思うんですよね。
学校などで勉強に集中できない子に対して『おい、もっと興味を持て!』とか言いますが、無理だと思うんですよね。
興味っていうものは、無意識下で先天的に持つものであり、意識下で後天的にもちうるものではない。
例えばですが、僕は『スポーツ』全般への興味が極めて薄いです。ゼロってわけではないですが、僕の人生においてプレイヤーとしても観客としてもスポーツという概念が失われたところで、惜しいとは思わないです。
これは、興味を持っている人からすれば信じられないことだと思います。
『いやいや、それはスポーツの良さを知らないだけだって!』
とかいう人が出てくるでしょうが、残念ながらそれは才能人の言葉です。そもそも『良さを知りたい』と思う原動力、興味を持ってないんですから、知ることは一生できないでしょう。
逆に僕は『革靴』が好きなんですが、これも意味がわからない人は多いと思います。
では、この興味を持てる持てないの差ってなんなんでしょう。
これは、今のところ僕のなかに解答を持ち合わせていません。
グラデーション的な概念ですし、興味を持てるものの周辺に関しては興味を持ちやすいとかはありそうですが、本当に興味の持てないものに対して興味を持つのは難しいと思います。
ちなみにですが、『興味の有無』と『知識の有無』は全く関係はありません。
人間は調べることができる生き物なので、必要に迫られれば調べることができます。なので、僕も野球が9人でやるものでっていうのは知っています。が、興味があるかというとないです。
また、人間は経年変化するものなので、昔は興味を持てなかったものが年を取って興味を持てるようになるということも十分にあるでしょう。
それが顕著な分野だと『政治』とかそうじゃないかなと思いますね。
さて、ちょっと長くなってきたので本題に戻して『才能とは興味を持てること』に戻しますが、才能の有無というのは結果を持って証明されます。目覚ましい結果を残すから、才能があるとわかるという当たり前の話です。
しかし、主観的に才能を確認するのは結果がなくてもできます。
なにせ人間は興味のないことを意識的にやるというのに強いストレスを感じる生き物です。
僕はスポーツに興味はないですが、やれと言われればやることは可能です。
しかし、気持ちとして前向きになることはないですし、外的な動機が失われればすぐにやめてしまいます。
これが興味の有無の差です。
強い興味がある人にとっては、外的な動機などなくとも、内的な動機をもってやり続けることができます。そして、それ自体に楽しさを見いだせますし、反復する中で報酬形態が確立されます。永久機関みたいなものですね。
この二者における差は絶大でしょう。
まとめ
徒然なるままに駄文を連ねましたが、僕と同じように才能に悩まされる人に対して、『興味を向けることができればそれだけで才能だ』という話をしたかっただけですね。
まぁ何に対しても興味が持てないという方もいるかもしれません。
その場合は、どちらかというと医療的なアプローチが必要な状況な気もしますが、興味が向けられることを探すといいと思います。
また、厄介な考え方に現代社会ではとかくあらゆるアクションを経済的な対価で測る文化がありますが、そこは深く考えなくていいと思います。
僕はラノベや漫画に興味があって、ただ貪るように読んできましたが、それが才能だとは思ってませんでした。しかし、それが高じて、今では編集者という仕事をしていますし、お金に対しての興味があったから起業家になれました。
なにが経済的な価値に結びつくかなんてわからない時代です。
だからこそ、盲目的な熱中を大事にしていいと思います。