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きみの銀の匙

今日庭の草刈りをしてて見つけた。

きみがいなくなってからいったい何度草を刈ったんだろう。今日初めて刈った場所でもなく、今までに何度も何度も刈った場所に落ちていた。庭へ置いたテーブルの周りに落ちていたなら、そこで何かを食べたときに落としたのかも知れない。蚊のいない季節にはあそこでよく食事をしたっけ。でも拾ったのはきみが畑に使っていた場所。だからきっと、きみが何か薬品か肥料を量るために使ったんだと思う。そうでなければこんな銀器が庭の隅に落ちているわけないもの。

夏に生まれて夏が大好きだったきみがこの家からいなくなって3度目の夏が来た。きみに連れられて初めて国東へ行ったのも夏のお盆だった。あの時見た何も遮るもののない夏空は今も僕の中できみや国東と重なって見える。
2回目の命日を過ぎた頃から、きみを想って全国から運ばれていた花や、手紙や、お菓子が届くことはなくなった。それは僕を除くほとんどすべての人の中で、きみがきれいな思い出になったことを意味しているんだろうと思った。そして3年前のあの日までと同じように、僕ときみと猫たちだけで、誰の訪問も受けずにひっそり過ごす暮らしが戻ってきたような気がした。

きみの部屋はあの日のままにしてある。いや、この家のほとんど全てがあの日で時が止まっている。先日Fさんの奥さんに「いい出物があるわよ」と声をかけられ、婦人会のバザー会場でガーデンチェアを譲ってもらってきた。
その時きみも僕も少し苦手だった或るご婦人が断捨離断捨離と騒いでいて、断捨離なんて言葉に頭を塗り替えられた人にありがちの「あなたももっと原点に立ち返って余計なものを捨てなさいと」うるさく説教された。あんまりしつこいから、「僕の家にあるものは爪楊枝1本でさえ順子との思い出なんですよ。あなたがあと何年生きるか知らないけれど、僕と順子はあなたのように新しい思い出を作ることはもうできない。だから僕は今あるものを何一つ捨てたくない」とブチ切れ気味に言ったら断捨離夫人は言葉を失くしてた。

思い出にすがって生きることは女々しいことだと言う人がいる。僕も自分がもう20も30も若かったらその意見にきっと首肯いたと思う。だけど僕はあと何年生きるのだろう? 人生の折り返し地点などとうの昔に過ぎ去り、男の平均寿命とされる歳までもうほんの僅かしかない。
僕はもう何かを変えたり、何かを清算したり、何かを新しく得ようという気は微塵もない。きみを看取り、7匹の猫たちを看取ったら僕は自分の人生を全うしたことに満足するだろうと思う。その日がいつ来るのかは分からないけれど、猫たちの年齢を考えればそんな遠い未来のことではないと思う。

断捨離と言って何かを捨てたい人は捨てればいい。かつて僕がそうだったように自らの周りにある物だけでなく、しがらみや自分に課していた制約さえ捨ててしまえばいい。そうすれば新しい暮らしや、新しい目標や、新しい夢や、新しい友人知人があなたの前に現れるかも知れない。
でも僕は新しいものを得るより今あるものを残す努力をしたい。あの日のまま、何一つ変わらず、何一つ手を付けずに。
だからこのスプーンは洗わずに土がついたまま、何年か前にきみが触れたそのまま、きみの写真の前に置いておくよ。

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