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足助のおばさんと教育 84

共通一次

歳がばれますが、私たちが共通一次の第一世代でした。高校時代私は新聞部に所属しており、企画として、共通一次のもたらす利点・不利点を大フューチャーすることになり、文献を読んだり、講演会へ出かけたりしていました。
その講演会の分科会で、大学入試を9月にすると、高校生は学校での学習に専念でき、卒業後に入試のための勉強ができるんじゃないかと発言したところ、現役の教師である参加者が「それは高校生の甘えだね」と一喝されたのを覚えてます。最近、文科省の音頭取りで9月入試の話が出てますが、是非はどちらにあったんでしょう。
というように、あまり普通の高校生のしないような活動に熱中していたので、別の参加者の方からは「高校生なのにえらいわね」というお言葉も頂きました。体育会系の部活なら、内申書に有利に働くこともあるでしょうが、私たちがやっていたのは、学校の成績とはおよそ関係のないことばかりでした。
私はもちろん、成績を云々しようとしてこれらの活動をしていたわけではありません。むしろ、教科の勉強が落ちこぼれているのに、こんな偉そうなことが言える立場か、と自問自答していました。
今になって思えば、あの頃に目覚めた社会に関する関心が、今までの私を引っ張ってきてくれたわけですから、大いに意義のある活動でした。偏差値で志望校を選ぶのではなく、自分の関心に1番沿った進路を選んだとも自負しています。
しかし、そうした活動が傍から見て価値ある活動だと認められることはありませんでした。肝心の新聞部の顧問の先生までが「この記事は自己満足じゃないのか」と揶揄する始末です。
共通一次について考えていく過程で、何でもかんでも点数にしてしまうことには大いに反論の気持ちを抱くようになっていましたが、大学卒業後、4度にわたって教員採用試験に落ち続け、こんなにも教育について情熱を抱いている自分が、全く教育界から必要とされていないと感じるのは辛いことでした。20年かけて正規採用を勝ち取った友人もいますが、それは、彼女が強かっただけでなく、非正規ではあっても教壇に立つ機会のあった彼女には、教員としての実績がついてきたからです。私は臨時教員の口さえなかったのです。
そのかわり、新婦人での活動には見るべき成果があり、私としてはこちらに未来を託しているつもりなのですが、足助在住では新聞や会員を増やすことに限界があり、こちらでもあまり評価されているようには思えません。
というように、周りからは評価されない半生を生きてきましたが、自分に価値がないと思ったことはありません。ただ資本主義的に言うと、労働の生み出す価値がゼロなのは否定できないんですよ。今も言った通り、何もかも点数、あるいは現金で評価することが不合理なのも頭では理解しているんです。ただ、世間から無視され続けた人間として、客観的に判断できる数字による評価を求める気持ちは抑えられないです。(2011年12月2日 記)

(元ブログ 共通一次: Here Come the 足助のおばさん (asukenoobasann.com)

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