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(私小説) 運命は扉をたたくか No4
新 展 開
(宣告後二年)
受診
そういう下地が出来ていたある日、母が気になる話をしました。なんでもALS『筋萎縮性側策硬化症』の講演会に行って、たまたま隣に座った女性が難病研究をしているお医者さんだったというのです。講演の内容は悲惨な話で、母とこの女性はともに涙したそうです。
母はこの時期、息子を何とかしたいと、いろいろと本を読み、情報を求めていましたが、この女医が地元の国立病院の難病専門医であることを知って、私のことを相談しました。そうしますと、一度いらっしゃいませんかということで病院名と名前を母に伝えたというのです。
私はこれまで学術的な病院で、マニュアル通りの検査と治療を受け、診察も温かみを感じていませんでしたので、講演を聞いて涙したというこの女医の人間的な側面に引かれました。そんなこともあり、紹介状も持たずに、いきなりこの女医の診察を受けることにしたのです。
その病院は先の大学病院の系列でしたが、この女医はどうもこの大学病院が確定した病名に疑問をもたれていたようです。そのことをはっきりと口に出すことはありませんでしたが、月に一度やはり同じようにサプリ(ビタミン剤)をもらいに行くときに、なんとなくそう言うことを口に出すことがありました。
しかし私はその話に気がつかない振りをしていました。というのも、この先生の話に気軽に乗って検査入院し、その挙句、残念ながらやはり同じ病名でしたという結果になることを恐れていたからです。初めて病名を告知されてから一年半が経っていました。
検査入院
昭和六三年六月のことです。飛び込みで受診したこの病院には、なんとなく人間的な温かみを感じ、それから月に一回ビタミン剤をもらいに行くようになり、一年が経とうとしていました。いつまでたっても私が検査入院をする気がないことに、その女医がとうとう語気を強めてはっきりと、あなたは検査入院をすべきです!と強い口調で入院を勧めました。私はその剣幕にやや押された格好で、検査入院を受けることにしました。
検査入院は、主として筋肉生検と神経の一部を採取するものでした。入院はわずか四日間だけですみ、私はまたやや退屈な仕事に戻りました。しばらくして検査結果を聞く日が来ました。その女医は部下の同じく女医と一緒に私を別室に招きました。そして奇妙なことに
「私からする?それともあなたから?」
どちらの医師からその話を切り出そうかと話し始めました。私はその態度からなにか良いことが起こったことを感じました。それは文字通りわくわくする内容だったのです。
別室で聞かされた病名は『封入体筋炎』又は『多発性筋炎』というもので、自己免疫の疾患による筋萎縮だというのです。そして『多発性筋炎』の場合は、薬によりかなりの改善効果が期待できるというのです。そして、その上司の女医はしばらく言葉を探していましたが
「あなたは入院すべきね!」
と言い切りました。
私はそのとき気持ちが軽くなっていくのを感じました。いままで心を覆っていた暗雲がかき消え、明るい太陽が急に顔を出したように思えました。
病院からの帰り、街の景色は一変していました。バスの窓から見える道端は緑にあふれ、木々は見事なまでに青々と繁り、伸びた枝は私に手を差し伸べていました。私はついに、、、希望を見いだしたのでした。
入院(宣告後二年半)
その検査結果を職場の上司に報告し、治療のために入院をさせてほしいと頼みました。上司もまたその報告を心から喜んでくれ、快く休暇をくれました。
昭和六三年八月、夏の終わりのことです。病院の周りの空き地には黄金色に光り輝くススキの穂が風に揺れていました。治療結果はこのススキの穂のように光り輝くことを確信しました。
入院に必要な衣類や道具類一式を詰め込んで、病棟に車で横付けしました。そして治療が始まりました。それは単なるビタミン剤の投与でなく、リハビリでもありませんでした。それはまさに待ちに待った『治療』だったのです。
先の大学病院では私の病気は神経の何らかの原因で筋肉が萎縮する、いわゆる神経原性の疾患と考えていましたが、この病院は筋肉に何らかの原因があるとする、筋原性の疾患と考えていました。こういう難病の場合、副腎皮質ホルモンを短期間、大量服用することが治療法として有効であるそうで、私が受けた治療もまたこのホルモンの大量投与でした。
副腎皮質ホルモンは、本来副腎で自然に分泌されているのですが、これを短期間、大量投与すると驚くほど効果がある症例が報告されています。入院の初期の説明では体重一キログラム当たり一ミリグラムを標準とするということで、私は毎日六十ミリグラムのステロイドホルモンを飲むことになりました。
しかしながら、人体が分泌するのが一日平均で五ミリグラム程度です。自然に分泌する十倍以上のホルモン剤を飲むということは、当然いろいろな問題を持っています。そのことは後にいろんな問題を引き起こすことになるのですが、なにぶん私にとって初めての本格的な治療です。そんなことなど知る由もありません。まさに期待の塊だったのです。
私が入院した病棟には、実に多くの難病患者が入院していました。病室は詰め所から一番遠く、六人部屋で、三人は多発性硬化症、一人はいまだ病名が確定せず、一人はスモン病患者でした。この入院以降、私の主治医は例の女医の部下に当たるもう一人の女医に代わりました。
プレドニンというのは錠剤で一錠が五ミリグラムです。この一錠が人体が一日に出す量だそうで。この錠剤を朝食時に十二錠飲みます。ただそれだけです。朝、薬を飲み、効果が出てくるのを待つだけです。
一日六十ミリグラムのプレドニンを飲み始めて、しばらくしてからの事です。握力計が廊下に置かれていました。何気なくその握力計を私も使ってみました。そうしますとどういうことなのでしょうか?入院直後十数キロあった私の握力は数週間で十キログラム以下に落ちていたのです。筋力を回復するために入院したのに、この結果はどう言う事?、私は割り切れない気持ちになりました。
プレドニン
しかしながら、このことを除けば入院生活は楽しいものでした。この病院は付属の看護学校を持っていましたので、初々しい看護学生が、毎日実習に病棟にやってきますが、実務に悲鳴を上げている現役の看護師は、彼女たちを手取り足取り教える時間がなく、彼女たちは何をしていいのか分からず、病棟で暇を持て余していました。
私の部屋には、ギランバレーの若者と同年代のMSの若者が暇を持て余していました。二人はこの看護学生をなんのかんのと部屋に呼んでキャーキャー騒ぎ、私はその光景を眺めて楽しんでいました。
看護学生も研修が進むと、病室の担当が決まったようで、私たちの部屋にも、1人の看護学生が、専属で入りました。彼女は、私の採血するときに、急に部屋を飛び出すと、しばらくしてからまた戻ってきましたが、緊張したので深呼吸をしてきたと、入院患者がびっくりするようなことを言っていました。
ちょうどソウルオリンピックが始まっており、朝からカール・ルイスとベン・ジョンソンの一大対決で盛り上がった男子一〇〇メートルの実況放送を見るという贅沢な入院生活でしたし、新たな環境に興味もあり、私は自分でも不思議なほど元気でした。他人から見たらきっとはしゃぎすぎていると思われるほど、やたら他人に話し掛け、いろいろなところを探検していました。
病棟は外周道路に接していたので、車を飛ばして近所のレンタル店からさまざまなビデオを借り、持ち込んだビデオデッキで楽しんでいました。
またこの時期、些細な事で奇妙に怒りに駆られました。朝の薬が一錠足りないと、大変な剣幕でナースステーションに駆け込み、婦長に厳重に抗議しました。落ち着きがなく、いろいろと素晴らしい(と自分で思う)アイデアが次から次に沸いて来て、他人に夢を語っていました。私は幸せだったのです。、、、というか幸せすぎたのです。
いつのまにか看護師からは怖い人と見られ始めていましたが、ぜんぜん気になりませんでした。私はただただ溢れるほど希望があったのです。
溢れるほど希望があると、どういうわけか猛烈におなかが減りました。病院食は食堂でいっせいに食べるのですが、食欲のない病人は手をつけないおかずがあります。私は目ざとくそういう病人さんにあらかじめ食べ残しを予約します。それだけではありません。食堂のおばちゃんに余った味噌汁をもらいます。その程度ではまだまだ足りません。私は売店におやつを買いにいきます。・・・こういうことをほぼ毎日していました。
とにかくやたら元気で、やたらおなかが減ったのです。私は見る間に太り始めました。腰まわりは90センチになりました。顔も急に丸くなり、二重あごというものが出来始めました。
もしプレドニンという薬を服用された事がある方ならお分かりかもしれませんが、このまるで『憑かれたような』元気や多幸感や異常な食欲や二重あごは、このホルモン剤のせいなのです。私は後で調べてみると、この時期まさに文献通りの副作用が出ていたのです。
回診
プレドニンを一ヶ月服用していたある日、足の指先に力が入る事を発見しました。指先が内側に曲がるのです。それまで指先はぴくりとも動きませんでしたから、早速主治医に喜びの報告をしました。
その日、私は会社の上司にもこのことを電話で伝えました。後のことになりますが、上司は、あの時の声は違っていたと私に言いました。
それから数日して院長回診がありました。難病病棟の院長回診というのはお互いつらいものがあります。大半の難病が進行性ですし、一週間で何が変わるというのでしょうか?同室のある長期入院患者は、院長がベッドに来ると、ありがとうございますと頭を下げます。そうしますと院長も何も聞かず、頭を下げて通りすぎます。これがこの病棟の院長回診でした。
ところが私は違います。院長は私のベッドに来るなり、自分から
「足が動くようになったんだってねぇ」
と問いかけます。
私のことはとっくに主治医から報告を受けていたのです。私はやや得意げにそのことを説明します。私の順番が終わると気まずい回診がまた続き、院長は去っていきました。
私は足の指先だけでなく、いずれ全身の筋肉が回復してくるだろうと期待を持ちました。毎朝起きてさりげなく足や手を見ます。ベッドから降りるとき、昨日と比べてどこか動きが軽くなっていないかと神経を研ぎ澄まします。魔法の薬といわれたホルモン剤です、効かないわけがありません・・・と思っていました。
死にたい
時間が来ると食堂に行き、ご飯を食べ、プレドニンを飲み、病室に戻りテレビを見てという、病室と食堂を往復する至極退屈な生活が続き、十一月末になりました。プレドニンを飲み始めてから三ヶ月が過ぎていました。足の指先が動き始め、それから続いて何が起こったと思われますか?
まったく何も起こりませんでした。
結局変わったのは体重が増え、顔がお月様のようにまん丸になっただけでした。
私は主治医からプレドニンの量を順次減らし、退院をする準備を進めますということを聞かされました。私はその時、プレドニンの治療が失敗だったと感じました。もちろん主治医からそういう説明があったわけではありません。プレドニンを順次減らすというのは、職場に帰る支度をし始めるということです。
もうプレドニンの効果を楽しみにしていた入院生活は終わり、あとは帰るだけです。何の楽しみもありません。私は治療はもう終わったのだと感じました。
季節は十二月になり、気温も下がり冬景色となり、山際に立てられたこの病院のあちこちに、寒風にもてあそばれた枯れ葉が舞っていました。その時、私の希望も干からびた枯れ葉と一緒に舞っていたのかもしれません。
主治医からプレドニンを減らすと言うことを聞かされたとき、表面的には納得したつもりでしたが、後から考えると、心の奥底では本当にがっかりしていたのです。 そのことを聞かされた直後から、私は猛烈な鬱状態になりました。それも今までの人生で経験したことのない様な猛烈な鬱です。気が滅入るなどと言う生やさしいものではありません。起きている間中、死ぬことを考えました。落ち込んで落ち込んで苦しくて仕方ありません。死ぬこと以外考えられなくなりました。この時期、あまりのふさぎように心配した主治医は、ひそかに母親を呼び、母親は数日病院内に泊り込んだということを後になって聞かされました。
思いあまって主治医に訴えましたが、主治医は私を精神科に回しました。私はこの処置にひどく傷つきました。落ち込むのはアナタノドコカニ問題があるんじゃありませんか?精神科に回されたというのはそう言う意味だと理解したのです。
後のことになりますが、調べてみますと、プレドニンの大量服用の後遺症として精神作用が現れる場合があると書かれています。人によって高揚感であったり、鬱であったりと様々です。
もしあの時、主治医が、あなたの今の状態は薬の副作用ですぐ良くなりますよと言ってくれていたら、どれほどか助かったことかと思います。
私は文字通り立ち上がれなくなりました。ベッドまで食事を運んでもらい、便以外はカーテンを引いてベッドに横になり、目を閉じて、ひたすらただひたすら鬱に耐えていました。
夜は眠剤のお世話になりますが、一錠では寝られません。多めにくれないので、一日おきに二錠飲み、その晩だけは苦痛から解放されます。私はその晩が来るのが楽しみとなり、寝ることだけが楽しみとなりました。唯一寝ている間だけ、苦痛から逃れられたからです。
十二月下旬ともなると、入院患者のために食堂でクリスマスパーティーが開かれました。看護師に手を引っ張られるように私は食堂に行きましたが、多くの人が集まる会場はまるで葬儀に集まった参列者のように見えました。
葬儀が済み『出棺』の後、三々五々解散する参列者のように、私はまた自分の部屋にとぼとぼと戻って行ったのでした。
十二月から始まった私の猛烈な鬱は年が明けた昭和六十四年(すぐに平成元年になりましたが)三月、私がその病院を退院するまで続きました。
退院の日、私の担当だった看護学生が、自分でまとめたというこの病気のレポートを渡してくれましたが、大して参考になることも書かれていません。私は主治医が現れるのかと待っていましたが、そういう雰囲気はありません。あなたは入院すべきね!と強く入院を勧めた先生も、私の主治医も現れないまま、私は病棟を後にしたのでした