見出し画像

北京入院物語(1)

   
 機は韓国上空を過ぎ、海が見えたと思うと、すぐに天津上空に達し、高度を急速に下げながら大きく旋回し、北京首都空港への最終進入コースを取りました。
あたり一面広い畑が見え、高度が落ちてくると、レンガ作りの粗末な家々が窓のすぐ下に見えてきました。
風にあおられて、機体は少し揺れ、窓からは地上と空が交互に見えました。
直後に地面に触れるくらい低空から北京首都空港の滑走路に接地すると、ドドドという衝撃と直後のブレーキ、逆噴射の排気音です。

 北京首都空港に降り立った私は、これが足掛け3年にも及ぶ中国漢方治療の第一歩になろうとは思いもしませんでした。 

私はこの時期、脊髄性進行性筋萎縮症という稀少難病を発病して15年、車椅子で生活して5年目で、立つことも歩くこともできず、寝返りすらできない状態であり、朝ヘルパーさん2名で車椅子に移乗し、夕方同じくヘルパー2名でベッドに戻るという生活をしていました。
 母は74歳と高齢で、当人もヘルパー介助の状態でありながら、全身性障害者の息子の度重なる用事に時に怒り、嘆き、悔やむという、生活をしていました。

ヘルパーと


 
 中でも悲惨なのは車椅子に移って以降の排便で、母は息子の両足を持って、車椅子から床までドスンと引き摺り下ろし、床に落ちた?息子を転がして、おしりの下に差し込み便器を入れるという作業をせねばならず、なんとか用を足した後は、2人ともセィゼィと肩で息をつく有様でした。
 
 下ろすのが(落とすのが?)こういう有様ですから、もう二度と車椅子には戻れません。
 私と母は近所の人が偶然来ないかと耳を澄ましていましたが、最悪、硬いフローリングに横たわったまま、夜ヘルパーが来るまで待たねばなりませんでした。
走行式電動リフトが入ったのは、この恐ろしい事態が始まった2年後で、その頃、私は自宅にいる限り、母も嘆き苦しむことは目に見えていました。
 
 当時の居宅サービスは措置費時代であり、私が住む京都の一地方都市では、当時ヘルパー派遣の有様は
「10時間が市の最高です」と福祉課の職員が言うので
「ほう、、すごいですねぇ」と言うと
「・・・・1週間でですぅ」という
笑うに笑えないような寂しい状況でした。
 
 我が家も週2回の入浴介助を除くと、ヘルパー派遣は朝30分夜30分のみで、それ以外のすべての時間は母が介護をするのが当たり前でした。
ところが、息子は186センチ、70kgと大きく、一番よく動くのは口先だけだったのです。
排便、排尿の介護を含め、健常な女性でもヒィヒィ言いそうな作業を、老化がなだれのように押し寄せている母1人がしていたのです。

 いわば足元に火がついている時期に、中国から夢のようなファックスが来ました。
中にはこういうことが書いてあったのです。
「中国の病院には専属の付き添いさんがいて、半日(朝7時から夜7時)でも800円弱だ」というのです。
北京入院物語(2)


いいなと思ったら応援しよう!