見出し画像

都市生活における村とその弊害


村について

 この記事でいう村というのは、「そこに属する人々に共同体意識を作る観念的なもの」を指す。挨拶をする関係性ともいえるかもしれない。
 例えば、ふとコンビニに入ったとする。店内にいる見知らぬ客や店員に、あなたは「こんにちは」と挨拶をするだろうか。言うわけがないという人が大概であるとおもう。これはふと入ったコンビニはあなたに共同体意識を与えるものではない、つまり村ではないからである。
 では仮にあなたはこのコンビニで働いている店員であると想像してほしい。そのコンビニの店長は眼鏡をかけた40代の優しい男性、他にはパートのおばさんが二人と、大学生のアルバイトが3人。出勤したらまずバックヤードにいる店長やシフトで入っている店員に挨拶をするだろう。挨拶をすることにメリットがあるからである。これは既に店員であるあなたにとって、コンビニ(職場)は村であり、村の中でうまくやっていくためのコミュニケーションが必要になるのである。
 村の中ではそこに属している個人に様々な事を認識させる。コンビニの例を使えば、店長や従業員の顔、性格、仕事ぶりをお互い認識している。人だけではなく、ルーティンワークや商品の位置、コンビニの広さやBGM、時間帯によって変化する客層、夜になると窓にたくさんの蛾が寄ってくることや、レジ前の床にこびり付いて取れない汚れなども認識させられる。

都市生活における村

都市生活における村は次のようなものが挙げられる。
・企業(職場)
・大学
・属している経済圏
・国、県、市町村
・団地
・利害関係者
・家族
・SNS上のフォロー、フォロワー関係

都市生活おける村

 特徴的なのは都市における村というのが、物理的、地理的な場や環境を中心としたものだけではく、人の中に想起する観念的なものも村に含まれるという事である。

 例えばSNSにおけるフォロー、フォロワー関係。物理的な身体がそこになくても、手元のスクリーン上に移される言葉や写真、動画のみからその発信者のイメージを膨らませる。タイムラインに流れてくるお馴染みのアカウントからの投稿に「イイね」をすることでSNSという村で生活を存続させる。
 例えば国、県、市町村。日本人であるあなたが異国の地で日本人にあった時、見知らぬその日本人に共同体意識を感じるだろう。去年末に開催されたワールドカップは世界中の人々を熱狂させた。それは、国の代表者同士が戦うという形式をとることで、共同体意識を巧みに煽ることによる。

自然性を失った都市生活者と弊害

 都市における村が場や身体から切り離された理由として、産業革命によって人、物、情報の移動できる範囲が拡大したことがあると考えられる。暮らしの存続の基本は他人との物々交換であることは今も昔も変わらないが、高速で動くモビリティーや電子通信が登場して以降、その取引相手がどこにいようと関係なくなったという事である。
 産業革命以前のある個人の生活圏を拠点(home)を中心とした円として考えるとする。円の半径は自分の脚やせいぜい馬で移動できる範囲だろう。彼らの円が重なればそれが村になる。重なる部分の面積が大きければ大きいほどその共同体意識は大きくなる。

生活圏、村

 産業革命以降この個人の生活圏は急激に拡大する。同時に人々は仕事を生活と切り離し、生活を他人に外注するようになった。農作物の作り方を知らない私が生活できるのは、それを知っている農家に外注しているからである。

 都市生活が成り立つのは生活圏に農家がいなくても農家に外注することを可能にするシステムがあるからである。つまり、遠く離れた私の生活圏と、農家の生活圏を、運送会社や卸売り会社が媒介してくれるというわけである。生活は、人の根源である農作物、海産物、酪農産物、水資源の生産をブラックボックス化してしまった。これが都市生活の弊害での一つである。

 この、生活圏の重なりから生まれる村において大切なのは地理的な影響を大きく受けるという点である。大きな文明は大河のそばで生まれたことが知られているが、川が近ければ川による災害に備える必要がある。また生活圏内の環境を常に気にかけ保全する必要がある。それらを怠ることは生活圏や村内での作物や、水資源などの生命線を失うことに直結するからだ。

 しかし、都市生活はどうだろうか。ブラックボックス化した生産プロセスは自身の生命線の生産現場について考えることを忘れさせた。昨晩食べた野菜の生産現場で、たった今大災害が起こっても、それは他人事に過ぎないのである。 

 こうした生命線の生産に当事者意識を持たなくなり、環境のメンテナンスを怠った我々の多くは、今日、環境問題が顕在化することでそのツケを払うことになる。

 また、生命線の生産から距離を置き、身体や環境から切り離された村社会で暮らす我々は、生態系のダイナミズムに生きていることを忘れてしまったように思う。近年のキャンプブームや登山ブームなどは一時的に自然という村に入り、ファストフード的にそれを摂取することで自然性を再獲得することを無意識に指向しているのだと理解できる。
 

生態的生命圏

 ここで一つ、都市生活と自然性の再獲得を両立する術はないかという話題に話を移したい。20世紀末から21世紀、我々はいかに都市生活を持続可能性のあるものにするかという問題に直面している。問題解決への様々なアプローチがなされているが、その一つとして、村のあり方を根本から見直すことの重要性を示したい。

 前述のように環境や物理的な場から切り離された村は結果的に環境への当事者意識を失わせたという仮説を説明した。そこで都市生活特有の村を補完する考えとして生態的生命圏を提示したい。

 生態的生命圏とは、居住地の近くにある地理的エレメント(流域、森林、海など)を中心として、村を再構成させるという事である。

生態的生命圏

正直まだあまりこれについては考えが固まっていないので、もたいつかnoteに書くことにする。以上。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?