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変換人と遊び人(28)(by フミヤ@NOOS WAVE)

面白きこともなき世を面白く⑪
~“遊び”概念のフラクタル性に基づくネオ「ホモ・ルーデンス」論の試み~

さて、このお三方(↓)のダイアローグ(対話)での「重さ」と「重み」をめぐる話(前稿参照)は、“物質と精神の統合”に至る道のりの描像をアシストするどんなヒントを遊び人にもたらしてくれたのか……。

じつはその話題は直ちに、80年代半ば頃の古い記憶に繋がった。いまや後期青年者だが当時まだ20代で前期青年者の私(前期、中期、後期を通して遊び人であることに変わりはないけれど)はその頃、湯川秀樹朝永振一郎という日本における物理学の泰斗お二人の著書を片っ端から集中的に読んでいた(あくまで一般向けの解説書や自伝、随筆、エッセイの類だが)。理数センスゼロの者が(その点も一貫して変わらない)、あろうことか日本人として初、そして二人目のノーベル賞(物理学賞)受賞者の著書になぜ手を伸ばしたかは後述するが、「重さ」と「重み」の話はまず、朝永博士の著書(注1)にあった “ものごとへのアプローチのしかたには定量的、定性的の二通りがある”という主旨の記述を思い出させてくれた。それまで定量的/定性的という語・概念に接したことがなかった当時の私には目からウロコだったこともあり、以来ずっと胸中に深く刻みつけられていたのだ。

定量的アプローチとは簡単にいえば対象を計測/計量して数値的な尺度(メジャー=measure)を得ることであり、その結果は数値や数式で表現される。だから「重さ」は、計測/計量の結果得られる0.8g、 10kg、350 tなどの尺度そのもの。一方、「重み」は計測/計量を経ることなく直ちに感受されるクオリア(質感)にほかならず、いかなる尺度とも無縁であることから、定性的アプローチによって得られるものだといえよう。たしか朝永博士は、科学とくに物理学において理論と実験結果の一致をもたらすには定量的な予測が不可欠であり、したがって物理学とは定量的な結果を重視するものだと力説していた。だからといって博士はけっしてそれがすべてだと語っていたわけではなく(じじつ物理の分野には“慣性の法則”や“エントロピー増大の法則”など、定性的な物理法則だってあるのだ)、むしろ二通りのアプローチの組み合わせによってこそ世界や宇宙に対する理解が深まると示唆していたのではなかったか……と博士の「知」に久しぶりに思いを馳せたところで、その後数十年を経てヌーソロジーに接した者の視座(以下、これをアフターヌース視座と記し、対義をビフォアヌース視座という)がこんな具合に発動しはじめた。

――計測/計量って、対象があってはじめて可能な行為なんだよなー。ということは定量的アプローチの対象としてのモノは、計測/計量を行う意識(精神)をもつ主体によって完全に客体化されるわけだ。つまり、このアプローチは主客分離の状態が前提になるってことだよね。とすれば、そんな意識とは無縁の定性的アプローチがもたらすクオリアって、ほんの一瞬であれ数瞬の間であれ主体と客体が一体化するような、そう、まさに主客一致の状態が生じさせるものかも。だからこの場合のアプローチは一方から他方へのそれではなく、対談でKaoriさんがこだわっていた「感受」という語が示すとおり、なにかを「感じさせる」モノとそのなにかを「受けとる」意識(精神)の間のキャッチボール的営為、つまりモノと意識(精神)双方の間に生じる相互作用(インタラクション=interaction)そのものを表すんじゃないのかな……。

ピント外れの可能性も排除できないそんなややこしい思念(笑)が生じたところで、「あー、そういえばっ!」と、もう一人の物理学者の「知」に思いが及んだ。「湯川博士のノーベル賞受賞に繋がった論文のタイトルは、たしか『素粒子の相互作用について』だったよね。そうそう、博士は随筆でも“物質と精神とはいかに関係しているか”について書いていたけど、あれも物質と精神の相互作用にスポットをあてた話じゃなかったっけ?あの文書には“精神と物体は表裏一体”みたいな記述もあって、その表現にはちょっと驚いた記憶があるよな。えーっと、あれはたしか、あまり物理学者らしくないタイトルの薄っぺらい文庫本で……、そうだ、『見えない世界』だっ!」というわけで私は、滝のような汗をかきつつ古い段ボール箱をいくつもガサガサゴソゴソ引っ張り出しては開けたり閉じたりを長時間にわたって繰り返す過酷な重労働を経て、数十年前に読んだ湯川博士の書籍をなんとか見つけ出した。結果的に同書が冒頭に記したヒントを直接もたらしてくれたわけだが、書名は『見えない世界』ではなく、目に見えないものだった。

真っ茶色に変色した頁を繰ってさっそく再読したところ、以前のビフォアヌース視座と現在のアフターヌース視座の間の隔たり、差異の大きさに愕然とした。早いハナシ、80年代はなにも考えずに読んでいただけだとわかってナサケない思いが湧いたものの(記憶に残っていたこと自体が不思議)、アフターヌース視座を半端レベルながらも獲得できた意義の大きさをリアルに、それこそずっしりした「重み」として感じた。さらにいえば、アンソロジー(選集)としての同書に収められた何篇かの文書のうち、私がヒントを得ることに繋がったわずか十数頁の短い随筆―これはあらためて気づいたのだが、なんと、“物質と精神”と題されていた!―で博士が述べていたことを理解するにはアフターヌース視座が必須で、それなしでは困難なように思えた。というのも、同文書の執筆背景には『物質と記憶』があったに違いないと思うほどベルクソン的テイストが強く感じられ(注2)、したがってヌース的思考に繋がる要素に満ちていたからだ(←あたり前だが、この認識はビフォアヌース視座では無理)。

博士は同文書でまず、「物質とはなにか」「精神とはなにか」 という二つの哲学的な問いを「物質と精神とはいかに関係しているか」という問いに捉え直して考える姿勢を示しているが、この切り口には「見事だな~」という感慨をあらためて覚えた次第。要するに博士の念頭には最初から、物質と精神は相互に作用しあうインタラクション関係にあるという大前提があったということだ。そしてそんな「物質と精神の関係性」を考えるに際して博士は「“物質から精神への通路”と“精神から物質への通路”という二つの路(みち)がある」と措定し、「自然科学が現に辿りつつあるのが“物質から精神への路”」であって、「哲学が立っているのが“精神から物質への路”」だという見方を提示する。そして後者は路というにはきわめて短いもので「精神と物質の間のより直接的な繋がりを意味する」と述べる一方、「そこではもはや、精神と物資とは表裏一体をなしているのかも知れない」という定性的な予測まで記しているのだ。

これだけでもヌースが掲げる“物質と精神の統合”に至る道のりを描像するヒントになり得るが、さらに湯川博士は同文書において、我々スピナーズに宛てたメッセージだろうか?とも思える↓のような一文を記している、ヌーソロジーという宇宙論哲学の出現をまるで予見していたかのように。

〇われわれの真の出発点は物質と精神とのいまだ分れざる所にあらねばならぬ。(同書p.70より原文ママ)

いかがだろう。物理学者というより哲学者の言説ではないかと思わせるこの一文は、ヌース的理念への道のりの出発点をハッキリ指し示す貴重なヒントとして受けとめられないだろうか。私としてはこれを、泉下の博士がスピナーズに向かって「なにはともあれ、“物質と精神は本来別物ではない”という認識をデフォルト化せよ」と力強く後押しするメッセージとして受けとめたいと思う。しかし、よくよく考えてみれば出発点(スタート)としての「物質と精神とのいまだ分れざる所」はヌース的理念の目的地(ゴール)そのものであり、このスタート=ゴールという事態はまさにウロボロスの蛇をイメージさせる。ということは、出発点を定めて第一歩を踏み出すと同時に「あらら、なんのことはない。出発したと思ったらそこが目的地だった!」と気づける可能性は充分にあるのだ。要は、その「出発点」に立てるか否か。我々に問われるのはその一点だが、この問いは結局、素粒子(量子)というものの捉え方、つまり素粒子を定量的アプローチの対象として客体化するスタンスを取るか否か、に帰着するはずだ。というわけで、ヌーソロジーである。素粒子を対象とはみなさないヌーソロジーには、その独自の理論によって誰もがあたり前のように難なく「出発点」に立てるようにアシストするという、きわめて大きな役割があるように私には思えるのだが……(←おいおい、なんだかエラソーだなw)。

さて、話が素粒子に及んだところで、理数センスゼロの前期青年者たる遊び人がなぜ偉大な物理学者の著書群に手を伸ばしたかに触れておこう。じつは、70年代後半の学生の頃から現在に至るまでずっと我が座右にある漢籍『荘子』が媒介してくれたのである。湯川博士が『般若心経』から中間子理論の着想を得てそれがノーベル賞受賞に繋がったという有名な逸話は聞いていたけれど、博士が『荘子』を高く評価していたこと、そして素粒子の振る舞いや素粒子同士の衝突という現象をその中にある「混沌」の寓話に紐づけて考えていたことを知ったのが、ちょうど80年代だった。私自身も「胡蝶の夢」を機に『荘子』の面白さに魅入られていたことから、湯川秀樹という人物と量子力学には俄然大きな関心を寄せることになった。「あの奇妙キテレツな混沌の話と素粒子の振る舞いが結びつく?いったいどういう発想?」というワケだ。博士とは高校、大学ともに同期だった朝永博士への関心も、湯川博士の自伝『旅人』に「真理への旅路の同行者、朝永君」と記されているのを読んだことをきっかけに生じたものだ。これは余談だが、前期青年者の当時の好奇心(遊びごころ)は、85年に開催された「つくば万博」に海外客を案内したついでに、当地でまだ敷設中だった電子・陽電子衝突型加速器TRISTAN(トリスタン)の工事現場まで足を運ばせるほど強いものだった(高い工事用フェンスと資材を搬出入するトラックしか見ることができなかったがw)。

いずれにしても当時お二人の著作に接したことで、我が内在には「物理学者って哲学者でもあるんだな」という認識が醸成され、さらに90年代に接したデヴィッド・ボームの著書(21)によってその認識は確固たるものになった。ところがごく最近、それが大きく揺らいだ。今年のお盆に開催されたサロンの3周年企画「ヌース・アット・ナイト」で半田さんが言及された「谷村ノート」なる文書を印刷して仔細に読んだところ(数式だけの第一章は飛ばしたがw)、大いに驚いて唖然とさせられたのである。その詳細はあえて記さないけれど(力量不足なのだ)、「現代物理学アカデミズムって、なにからなにまですべて定量的に把握できるという前提に立っているわけ?定性的アプローチを完全に捨象しきっているように思えるけど、大丈夫かな。余計なお世話だけど、湯浅、朝永両博士が草葉の陰で泣いていない?」というような思いを禁じ得なかったのは事実。

本稿はここで締めることにするが、スピナーズのみなさんにはぜひ『目に見えないもの』をおススメしておきたい(絶版になるとは思えないものの、新品で確実に手に入るうちに)。この講談社版の初版は1976年だが、底本は1946年(昭和21年)に刊行されたもの。そして本書に収められている“物質と精神”と題された随筆的文書は昭和18年(1943年)即ち広島・長崎に原爆が投下される2年前の戦時中に発表されていたものだ(博士のノーベル賞受賞は戦後の 昭和24年だから、その6年前ということになる)。

(注1)『物理学とは何だろうか(上下)』(岩波新書)
(注2)湯川博士の自伝『旅人』には「三高(現在の京都大学)時代は新カント派の全盛だったがベルクソン哲学も人気があった」旨が記されていることから、博士がベルクソンからなんらかの影響を受けていたことは充分に考えられよう。

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