変換人と遊び人(27)(by フミヤ@NOOS WAVE)
面白きこともなき世を面白く⑩
~“遊び”概念のフラクタル性に基づくネオ「ホモ・ルーデンス」論の試み~
さて、「人間型ゲシュタルトは解体に向かうどころか、逆にその支配力を増しつつあるんじゃね?」と呟きたくなるような昨今だ。ネット空間との繋がりは維持しているもののテレビとは20年以上前に縁を切った遊び人でさえそう思うのだから、いわゆる情報社会に毎日深くコミットされている方なら、似たような感慨をさらにつよく抱かれるに違いない。
しかしネット空間もいまやSNSが主役を担っているためか、まるでルサンチマン空間のような様相を呈しつつある(先般行われた東京都知事選挙の後は、それがより顕著になったような気がする)。まともにSNSを運用できない者がいうのもナンだが、それが推進するこの世のルサンチマンワールド化は、面白くもおかしくもない事態だ。だからといって、もはやネット空間とお別れするわけにはいかない。いとも簡単にテレビ空間とサヨナラできた当時と昨今では、私たちを取り巻く世の状況がまったく違うのだ(もしかするとそのこと自体も、近年における人間型ゲシュタルトの支配力強化を示している?)。
――ではどうする?
そんな自問に対して、遊び人はこう自答する。
――ネット空間の“理念なき運用(者)”のことはエポケーしつつ、自らは“理念に基づく運用(者)”に徹すればいいだけなんじゃね?
エポケーとは、完全に無視するのではなく、「え?」と一瞬息をのんだ後すぐさま「ぽけーっ」という表情で意識の焦点をずらし(←つまんねーだろっ !)、判断を留保・棚上げすること。ありていにいえば、“仏ほっとけ”スタンスをとることだ。フッサールはこれを“カッコ「」に入れる”と表現したけれど、それにならえば上記の自答は、「今後のネット空間との接触に際しては、“理念なき運用(者)”が牽引する面白くもない側面をカッコつきの『ルサンチマン空間』として放っておき、自らの理念に基づいて『面白い(あはれ、あなおもしろ!)』((15)参照)と思える運用に専念すべし」ということになろうか。
「うんうん!」と深く頷かれる方が少なからずいらっしゃることを願いたいが、どうだろう。いずれにしても、ヌースコミュニオンにおけるネット運用はつねに理念を伴うものに違いないし、またそうでなければならないと思う。そう、理念とはイデアにほかならないのだ。というわけで、同コミュニオンによるネット空間運用の現場に話題を転じることにしよう。
――ひえええー、びっくり(*_*)、驚いたっ!
おいおい、いきなりなんだよー!ではあるけれど、じつはなんと、先般のヌーソロジーサロンでは“遊び”概念がテーマになっていたばかりか、拙論が拠って立つオランダ人学者ホイジンガとその代表的著作『ホモ・ルーデンス』にも触れられていたのである。半田さんと川瀬さんによるシリウスファイル談義シリーズにおいてだが、私が知る限り、これまでヌーソロジーシーンでその分野が主題として扱われることはなかった。だからホントに驚いたのなんの……。そのうえ、これまたなんと、世界的大富豪のおひとりに関する衝撃的かつ刺激的な情報が半田さんから開示されたものだから、まさに驚天動地のサロンだった。
そこで繰りひろげられたトークの内容はテーマが“遊び”であるにも関わらず(いや、だからこそか?)、ヌース的な深みを感じさせてくれるものだった。だからきわめて有意義な回だったと思うが、ひとつだけ難癖をつけるなら、お二人に招かれて飛び入り参加された方の話がさほど面白くなかった点だろうか。たいへん失礼ながら、アブラムシ/蝶々的(あるいはごまめ/とうふ的)な邪魔者役(=オジャマ虫)として登場されたのかな?という印象は拭えなかった。私と同じく遊び人を自称されているようだが、もし実際にお目にかかる機会があれば、その際はぜひ「ヌーソロジーと遊びは、結局どう結びつくんですかね?」というツッコミを入れてみたいと思う(笑)。
とにもかくにも、正面から(それこそ本来的な意味で“真面目”に) “遊び”が扱われたというそのことに驚愕したわけだが、よくよく考えてみれば、まったく驚く必要はないのだ。なぜならヌースは以前(4)でも述べたように、「あらゆる分野における人類の知見を統合し得る可能性を秘めている」と考えるからだ。そう、ヌースはそれを秘めているからこそヌースなのである。そんな「人類の知見の統合」は、ヌースが掲げる究極の理念「物質と精神の統合」への指向性を明瞭に示すようなカタチで進んでいくに違いない……。そして遊び人としては、それぞれの時代や地域、文化的背景だけでなく専門分野も異にする三人の先哲ープラトン、ホイジンガそして白川静博士ーが揃って明示していた“遊びは神聖な営為である”という(共通の)認識を貴重な「人類の知見」のひとつとみなしている。だからサロンで正面から“遊び”が扱われたという事実は泰然自若の態度で受けとめるのがスジであり、けっして「ひえええー」と驚いたりしてはイケナイのである。
いま上で「物質と精神の統合」に触れたけれど、じつは遊び人は、この究極的理念を実現に至らしめることが≪ワタシ≫の根源的営為すなわち≪アソビ≫(10参照)のターゲットあるいはゴール(双六や麻雀でいえば“あがり”)に違いない、と考えている。…………さらりと言明してしまったが、同じことをもし「ルサンチマン空間」で吐露すれば、直ちに「なにーっ、ヌーソロジーの理念が遊びだと?( ゚Д゚)」というような、怒気と呆れを半分ずつ含んだ声が挙がりかねない。しかしこの場もコミュニオン空間だ。世に阿(おもね)る必要はないし、まして上記先哲三人の共通認識に鑑みれば、共感の嵐を呼ぶとまではいわないけれど、寛容に受けとってくださる方は少なくないとみて、あえて記した次第。
唐突だが、ここで、約一ヶ月前に配信された音声コンテンツ「シリウスと潜象をめぐるダイアローグ」(↓)をご紹介しておきたい。これはヌースとカタカムナに関する「おしゃべり会」の音源をそのまま、“ダイアローグ(対話)”というハイカラな(←死語だってば!)題を冠して公開したもの。じつは遊び人はこの対話の中に、試みることさえ困難な「物質と精神の統合」に至る道のりの描像(前稿で触れたイマジネーションの発動)を手助けして貰えそうなヒント要素を見出したのだ。それを見出したのは、実際に粒子加速器を用いて量子力学分野の実験に携わった経験をお持ちのトクダさんがカタカムナ研究家のサヨさんと NOOS WAVE スタッフの西那留かおりさんを相手に、「重さ」と「重み」の差異をカタカムナの第3音韻「ミ」に紐づけて説明される後半の箇所である。「ミ」はヒフミヨイムナヤコトのミであり、「重み」のミは上述した「ヌース的な深み」というフレーズにある「深み」のミでもある…………。さーて、遊び人ははたして、「物質と精神の統合」に至る道のりの描像をアシストするどんなヒントを見出したのだろうか?例によって思わせぶりで恐縮だが、次稿でそれを明らかにしたい(遊んでんじゃねーよ!という声が聞こえそうw)。