煌めいて消えゆく
遠くの誰かの自死は妙に、余計なノイズが削ぎ落とされ洗練された哀しみを持つ。
誰かが死ぬことを決意した、その夜のことを想った。死の決意は、生きていた彼らのさいごの煌めきだ。死を認識するということは、生きていることの証なのだから。
夜の闇で小さく光る家々の、その灯りの中で誰かのさいごの煌めきを見失う。
決意は誰にも悟られない、止めようがない、彼らの周りはきっといつだって夜で、彼らは点々と散らばる灯りの外に居る。揺るぎない速さで夜は更けゆき、灯りの点々は少なくなる。彼らが帰るべき灯りの中に辿り着く前に、あるいは朝日が彼らを照らす前に、灯りがひとつ残らず消えて煮詰まった闇が彼らを覆うその瞬間、彼らはその最後の灯りと共に、煌めいたのち静かに消える。彼らのさいごの煌めきを、その決意を、誰も見ることがなかったから、彼らは今ここに居ない。
生きていることを噛み締めれば噛み締めるほどに、私たちは死に近づく。
“いつだって隣合わせに”
死ぬことだけは決まっている、私たちは生きているのだから。
隣に居る死を横目に見ながら深く息を吸い込んで、静かに祈る。愛するすべての人たちのさいごは、灯りの中にありますように。
そして、煌めいて消えていった彼らのことを想い、空の星々を見上げる。
誰のせいでもなく、生活は密やかに、時に人を死に至らしめるような残虐性を抱え、それをもってして明日も誰かを傷付けるだろう。そんな生活にすら、愛を見出してしまう者はみな等しく愛おしいと、私は思う。
その愛を見出しても尚救われることはなく、昼と夜は残酷に繰り返され、やはり時折、誰かの首を絞める。
そしてみな等しくいずれ死ぬ。この事実は生きている私の震える心にも、空の星々のひかえめな明滅にも、平等に安心をもたらす。
愛も残虐性も、この前提のもとにこの世に存在するのかもしれない。