『風は夕陽を連れてくる』
2022年夏に書いた短編小説です。
全てフィクションであることをご承知いただければと思います。
運命って、別に向こうからやって来てくれるもんじゃないと思う。完全を求めてしまう私たちは、運命というものが辞書の通り、人知の及ばないところでその人の生前より定められた巡り合わせ、だと思い込んでいる。生前から定められている、揺るがすことの出来ないという完全性。運命という言葉は、その完全性をもってして人を惹きつける。でもきっと、生前から定められている物事なんてあんまり無い。少なくとも私の生活には無い。辞書は時々嘘をつく、辞書は生きてはいないから。
私は今日も横目に通り過ぎた。偶然は偶然のままでそこにある。
彼に気付いたのはいつの頃だったろうか。
春に大学へ入学してからしばらくたった頃、五月のことだったと思う。暖かいような涼しいような、どっちつかずの甘やかな風が吹いていた。必修の四限を終えて食堂棟の方を通ると、その裏口の方に彼がいるのを見つけた。はにかむような歯がゆい笑顔、立ち居振る舞い、横顔、何よりその頬のえくぼが私の中で決め手となった。
彼だ。
それ以来、四限終わりに食堂棟の前を通ると、彼は決まってそこにいた。もしかして、は次第に確信に変わり、でもどうして、が心の中で渦巻いた。
けれども私は、この偶然を単なる偶然のままにしておきたかった。ただただ、勇気がなかった。過ぎ去った年月が私たちを変えてしまったことを知る、その勇気が。
◈
母と二人で勇払に着いた頃には辺りはもう夕暮れで、田舎町は茜色に染まっていた。新千歳空港からバスと、ちょっと高い特急とを乗り継いで、だいたい一時間ちょっと。だだっ広い勇払原野と、反対側を海で挟まれた小さな町。祖父母と母が生まれ育ち、幼い私が過ごした町。東京へ単身赴任していた父のもとへ引っ越したのが小三の終わりだから……。
「十年振りだ」
祖父は私が生まれる前に亡くなっていたので、祖母は十年間をこの土地で、一人で暮らしていたことになる。
「あーこれで最後かなあ。もっとおばあちゃんち、来ればよかった」
「藍も今年二十歳はたちになるんだし、来ようと思えばいつでも来れるようになるよ、一人がイヤならお母さんがついて行くし」
母がそう言うのをよそに、私はなぜだかどうしようもなく、これが最後だと確信していた。夜が薄れて明るい光が世界を照らし、十時間と少し経てばまた空のてっぺんから夜が滲んで私ごと世界を紺青に染めてゆく。そんな太陽系の動きに即したこの世界の理がごとく、私の中では分かりきったことのように思われた。言い訳のように、おばあちゃんも引っ越すし、と胸の内で付け足しておく。
相変わらず、見渡す限りなんにも無い所だ。からっぽの町を満たすのは澄みきった綺麗な空気だけで、私はそれを、懐かしさと共に肺いっぱいに吸い込んだ。三月末、東京よりも随分と冷たい空気が私を満たす。
「藍、ほら行くよ!」
歩き始めていた母に急かされ、私は夕焼けの道を追いかける。遠くからは、東京では聞かない鳥の鳴き声が聞こえていた。
勇払に住む祖母はこの春、私たち家族の自宅近くの老人ホームに入所する。私と母が引っ越してからも一人でかくしゃくと暮らしていた祖母だったが、数年前から少しずつ足腰が弱っていったし、心臓があまり良くないと医者に言われたこともあって、この家を手放す決意をしたのだ。私たちの住む小綺麗ではあるが手狭な2LDKに祖母の寝起きする場所はなく、結果として老人ホームへの入所に丸く収まった。闊達な祖母らしく、そうと決まってからの行動は早い。こちらからいくつか老人ホームの資料を送るとすぐに、ここにする、と電話が来た。母やファイナンシャルプランナーである父と連絡を取り合っていたかと思えば、私の知らないうちに家や土地、保険なんかのことも含めて全てが上手く取りまとめられており、祖母は
「太一さんがいたから良かったわあ、安心安心」
と、電話越しに満足げであった。母はそれを聞いて 「現金な人ね~、単身赴任中はあんなに仕事馬鹿とか文句言ってたんだから」
と呆れ、父はそれを払拭したかに思ったようで、ちょっと得意そうにしていた。
そして明日、いよいよ祖母が引っ越す。私は母と二人で、引っ越しの手伝いを口実にこの慣れ親しんだ家に別れを告げるべく、はるばる勇払まで来たのだった。
祖母は私たちが来るのを心待ちにしていたらしい。久しぶりの挨拶を交わして家に上がると、懐かしい居間の―畳敷きの六畳間、廊下を挟んで広い台所と向かい合っている。壁際には年月を蓄えたかのような深い茶色の古めかしい食器棚、反対側にはお仏壇、そして小さな本棚と、その上に飾られた新旧入り乱れた写真立て。それらは中から、大切なものが抜かれ、ほとんどがらんどうになってそこにあった。真ん中に敷かれた薄いカーペットの真ん中で、ちゃぶ台だけが相も変わらず、ちんまりとそこにあった。―ちゃぶ台には、豪勢な天ざるが並んでいる。
「おばあちゃんたら、やーっぱり蕎麦取ったんだ?」
「そんだよ、武ちゃんのところの。藍ちゃん達が帰ってくんならエビ二本サービスって」
「あら~いいのに。武志おじちゃんの所にも挨拶に行かなきゃねえ」
荷物を降ろしながら母が言う。武志おじちゃんは祖母の末の弟で、近所で蕎麦屋を営んでいる明るい爺ちゃんだ。祖母が引っ越せば、勇払に残っている親類は唯一、武志おじちゃんだけになってしまう。
祖母は昔から、おめでたい日、特別な日には蕎麦か寿司の出前を取るのだった。小学生の頃、誕生日はハンバーグとかケーキとかそういうのが食べたかったけど、祖母は毎年嬉しそうに「マグロとエビと、どっちがいいかい?」と尋ねてきて、私はいつだって祖母の心の底からの厚意を断り切れず、小さな声で「エビ」と答える。幼い頃の私は祖母にすら遠慮しいだった。母は「祖母を傷つけたくない」という私の意思を尊重してか、毎年誕生日を過ぎた頃に「内緒」と囁いてから苫小牧へ私を連れ出し、ちょっと高い特別なショートケーキを食べさせてくれた。内緒、内緒。その言葉を、口ずさむように軽やかに口の中で転がしながら、母と手を取り歩いた苫小牧の街並みを思い返す。
そんなことを思い返していると、母も似たようなことを思っていたのか、なんとなく目が合って苦笑する。祖母の祖母らしい小さな慣習も今日で最後かと思うと、ひと際懐かしく寂しく思った。
三人で、十年前と同じようにずるずると蕎麦をすすった。私の身長が伸びて一人前を食べきれるようになったこと、祖母の深まった皺と小さな手の震え、母の顔色が当時よりずっと良いこと。それだけで、過ぎ去った年月を語るに十分事足りる。ずるずる、ずるずる。その合間にサクリ、と音がすればそれはからりと揚がった天ぷら。三人で囲むちゃぶ台での食事はきっとこれが最後で、三人分のずるずるサクリは、最後を彩るにふさわしいと思った。それにしても、武志おじちゃんの蕎麦はやっぱり硬い。噛みごたえが売りの十割蕎麦は、幼かった私にとって食べるのに難儀する代物であった。それでも幼い頃から、武志おじちゃんのことが大好きで、武志おじちゃんの天ざるが世界一で、出前してくれるのを勝手口に取りに行くとカカカと笑いながらガシガシと私を撫でてくれるのが好きで、それはやっぱり特別な日の記憶として私の中にある。東京に引っ越す日、武志おじちゃんが私に言った「ここで一生蕎麦を打ってるからよ、藍ちゃんいつでも帰っておいで」が、記憶の奥から響いてきて、私の心を切なくぎゅっと掴んだ。――やっぱり、もうちょっと遊びに来るんだったな。
蕎麦でお腹が膨れると、私は家中をくまなく点検して回った。しかし祖母は荷造りを完璧に終えていて、特にやるべきことも見つからなかった。この家と共に取り壊してしまう家具たちにそっと触れ、その扉を無駄に開けたり閉めたり。それは、勇払での過去を、東京で暮らすようになってから遥か遠くにあった記憶を、少しずつ思い起こしては、大切に心に仕舞い直していく、愛しい作業だった。私は過去に別れを告げながら、二階のかつての私の部屋まで行き着く。
私の部屋だった二階の真ん中の部屋は、この家の三角屋根の丁度下で、ちょっと広い屋根裏部屋といった風情である。一人暮らしで部屋を持て余していた祖母は、私が使っていた小学生サイズの小さな机も、ベッドも、タンスも、そっくりそのまま残している。しかしこれらはもう、この家と一緒に壊されるのを待つのみだ。
部屋にある唯一の窓は、もう既にとっぷりと夜の闇に染まりきっていた。昼間ならここから、だだっ広い平野に一列に並んだ風力発電の大きな風車がよく見える。それがぐるんぐるん回っているのを眺めるのが好きだったな、と思い出した。風車、その完璧な佇まい。まるでこの町を守るかのような――。
まだ夜はキンと冷え込む勇払のことだ。その夜、私は電気毛布を持ち込んで、その懐かしい部屋で眠ることにした。
風が、強く窓をがたがたと震わせている。風の強い晩は幼い頃から幾夜もあった。私はその度に、風を味方につけてぐるんぐるんと勢いよく回る風車を思い描き、瞼の裏でそれを眺めながら眠ったものだった。
◈
風車は物心ついた頃からなんとなく心惹かれる存在だった。真っ直ぐ伸びた柱に、なだらかな曲線をえがく真っ白な羽根、それがその日の風に合わせて時に威勢よく、時に優しげにゆっくりと回る。その様子は綺麗で完璧だ、幼心にそう思っていた。
風車が私の中で決定的な意味を持つようになったのは大原翼たすくと出会ってからのことである。
小学校三年生に上がった時、札幌から転校生としてやってきたのが翼だった。明るくって人懐っこくて、足が速くて、誰にでも優しくて、この町では本当に珍しい転校生。そんな翼が、十人ちょっとしかいない学年で人気者になるのにほとんど時間はかからなかった。
ちょっと引っ込み思案でおとなしかった私のことも、翼は仲間外れにしなかった。翼が遊びに誘ってくれたおかげで、その年の夏休みはクラスの皆としょっちゅう原野に遊びに行くようになる。そう、風車が立ち並ぶ勇払原野へ。
風車の立っている海側の一帯はフェンスで取り囲まれていて入れなかったが、そこを除いても子供が走り回るのには広すぎるくらいの原っぱが広がっていた。
ある日は走り回って鬼ごっこをして、疲れて寝っ転がって草まみれになったり、ある日は勇払川まで虫取りをしながら歩いて、背の高い葦の群生に分け入り、蚊にたくさん刺されて痒さに騒ぎながら大笑いしたり。そして夕方になれば、茜色の夕陽の中できらきら回る風車を背に、汗の匂いをぷんと漂わせながら、それぞれの家に帰るのだ。夏の生命力の輝きを押し固めたようなまぶしい記憶。草いきれのむっとする熱気のなかで、生きているものの匂いを纏い横並びに歩いては笑っていたあの夏の私たちは、その無意識下にみな等しく、暴力的な無邪気さをひたひたと滾らせていた。
私たちは、私たちが平等に幸福であると信じていた。子供は何も知らなかったのだ。
ある時、帰りがけに誰かが
「なー、誰か風車の真下って行ったことある?」
と聞いたことがあった。生まれてからずっと勇払で暮らしてきた誰もが首を横に振る中、
「あるよ!」
と答えたのは意外にも翼だった。
「あんな、俺んちの父さん、風車のカンリニンなんだ。へへ、それで俺、こないだ内緒で連れてってもらった! ヘルメット被って車で!」
ちょっと照れくさそうに、それでも誇らしげに父の話をする翼の、弾けるような笑顔と両方のほっぺたに出来るえくぼを、私は今も覚えている。
「いいなー」
「すげー」
と口々に言う同級生の中、翼はさらに得意になって
「父さんね、北電ホクデンで働いてた時に、勇払に風車立てる計画のリーダーでね、それで今は風車のカンリガイシャの社長! カッコイイでしょ!」
と続けた。父が普段東京にいてたまに帰って来た時にしか会えない私は、嬉しそうに父のことを語る翼が羨ましかった。とても素敵だとも思った。
思えば、私は翼と仲良くなりたかったのかもしれない。くるくると表情を変え、周囲を巻き込むような魅力を持った翼と。それは「おしとやか」だけが取り柄の私とはまるで違う。
「私の部屋から、風車が一列に並んでるのがちょうど見えるよ、あれ見てるの結構好き。白くて大きいのが一列ぴしっと並んでカッコイイし、風に合わせてぐるんぐるん回るのは、きれい」
そう言うと、翼は思った以上に食いつきが良くて、
「だよな! 風車はカッコイイんだよ、うんうん」
と、学者みたいな顔をして頷くので、私は嬉しくなって笑った。
勇払原野は線路を境界に小学校の方、多くの人が家を構える町側とは反対にある。線路を渡るのは踏切じゃなくて、人工的なトンネルの上、線路をまたぐ丘のような坂道で、私たちはその坂を渡った先でいつも二手に分かれた。駅に向かう方角、より駅から離れる方角。私と同じ、駅から離れる方角に家がある子はそもそも少ない。その日はたまたま、翼と私の二人だけだった。ばいばい、また明日ねーっ、と手を振り合って、帰路につく。
「藍が風車好きって言うの、意外だったな」
「え、そう?」
翼はうん、と頷きながら
「だって、女の子って風車とか? でっかいメカっぽいの? をカッコイイとか思わないもんだと思ってたし、興味ないかなって思ってた」
翼は、てん、てん、と足を放り投げるみたいに歩きながらそう言った。嬉しそうな声音とは裏腹に、目線はずっとその青っぽいスニーカーを見ていた。意外に照れ屋かな、と思ったのを覚えている。
「好きだよ、風車。大きくて、きれいで、この町を守ってるみたいだなって思う」
かくいう私も大概照れ屋で、やっぱり足元を見ながらそれだけを返した。
てん、てん。翼がつま先から地面へ着地するたび、綺麗に舗装されているわけではない道の三センチ上を、砂埃が舞った。二つ分の影は遠くに遠くに、黒く伸びる。追いつけない影、黒い影。私はそれを少し不気味に思った。
翼ははたと止まって、急にこちらへ首をぶんと振った。夕陽に照らされた横顔はとても綺麗だった。もみあげのあたりで、きらりと汗が光る。顔半分が陰るからか、その顔はいつもの小学三年生の翼より、なんだか大人っぽい。私は私の顔もこんなふうに見えてたら良いな、と思いながら、翼の顔をまじまじと眺めていた。
「なあ、今度うち遊びにおいでよ」
突然の誘いに、私は数秒間、二人の間に流れる時を止めてしまう。
「え。いいの? どうして?」
「うん。藍のお母さん、週に一回病院行くっしょ、そん時寂しかったらうちに来ればいいよ……って、うちのお母さんが」
翼は照れたのか、全てを自分の母のせいにしながらも、そうした方が良いよ、とでも言いたげにこちらを見ていた。どうしてうちのお母さんが病院に通っていることを知っているんだろう、とは思ったけれど、そのときはあまり気に留めなかった。
「じゃあ今度、遊びに行くね」
私の頬にも、健康的な夏の汗がつうと滑る。
「おう」
翼は、やっぱり照れているのか、それだけ言うとずんずん歩きはじめた。
私たちもそろそろ二手に分かれる頃になって、じゃあまたな、明日ね、なんてもごもごと言いながら、お互いやっぱり足元を見たまんまだった。
その時、遠くから鐘の音が聞こえる。キーンコーンカーンコーン。私の耳にその音が響いた瞬間、汗がさぁーっと引いていくのが分かった。
五時の鐘。私の門限を知らせる鐘。
「じゃっ」
私はそれだけ言い残すと、鐘の音が鳴り終わらないうちに、家までの道を全速力で駆け出した。
結局私はその日、いつもより帰りが十分ほど遅くなってしまった。完全に油断していた。家に帰るなり私は叫ぶ。
「お母さん!」
悪い予感って、大抵当たる。 母は、玄関先で発作を起こしていた。久しぶりの発作だった。
いつ見てもその発作は幼い私をひどく怯えさせる。うずくまった母は、普段の母よりうんと小さく見えた。それなのに、小さな体から吐き出される速く荒い息は獣のようで、激しい動悸を抑えようと食いしばる歯と歯の間から、フシューッフシューッと呼吸音が聞こえる。母の手は青白く、心臓の辺りをぎゅっっと抑えて筋張り震えている。母はその乾ききった血色の悪い唇の狭間から、「あ……い……」と私の名を、荒い呼吸に紛れ込ませた。
母の発作の原因は分かっている。不安だ。母は常日頃、私がどこか遠くへ行ってしまうんじゃないかという大きな不安を、華奢な身体のどこかに潜ませている。私の物心がついたときからこれまで、不安が母の側から離れたことは片時もなかった。過保護と言えばそれまでなのだ。しかし母は私から見てもどこか病的で、その不安は母に覆い被さり離れない巨大な恐ろしい獣のように思われた。私は時々、母のことがよくわからなくなった。それは、獣が母を覆い隠しているからだと思った。
そして獣は、時折母の身体を乗っ取り、私の眼前に現れる。きっかけはいつも、私の不在や病気やケガだった。
「お母さん、藍はここにいるよ、遅くなってごめんね、帰って来たよ」
小学校三年生に抱き寄せられた獣は、まだ荒い息を吐いていた。
その狭間に、
「あか……ね……」
と私の知らぬ名前を呟く。
「え……?」
聞き返す私の腕の中で、獣は大汗をかきながら、次第に母に戻ろうとしていた。息が少しずつ、その速度を緩めてゆく。身体の震えが落ち着き、胸を押さえていた手からは力が抜けて、その手が私の背中へと回された。
「よかった、藍、帰って、来た。帰って来てくれて、ありがとう」
母は発作を起こしている間、頭が真っ白になるのだと言う。そして、藍がこの世から居なくなるかもしれない、という不安と恐怖だけが頭の中を駆けずり回ってそれしか考えられなくなるのだそうだ。「この世から、って言うと大袈裟だけど、発作自体が大袈裟そのもの、みたいなところがあるからね」と、いつの日かの母は自嘲気味にそう言っていた。 母は大抵、発作が収まってくると私にありがとうと言う。ありがとう。その真意を、私は知らない。ただ少なくとも私を肯定しているだろうその言葉、それに包み込むようにして、私はさっき聞いてしまった「あかね」という名前を隠して忘れてしまうことにした。そうすべきだと、なぜか思った。 獣が、私のことを見据えていた。
その日の晩、ふと思い出したかのように祖母が私に尋ねた。
「藍ちゃん、今日はどうして帰りが遅くなったんだい」
「ごめんなさい」
「いいんだよ、藍ちゃんのせいじゃない。もちろんお母さんのせいでもない。たまにこういうことになってしまうのも、仕方のないことさね」
こういう時の、私が母の発作のきっかけを作ってしまった時の祖母は、いつだって優しかった。
「札幌からの転校生の子、翼って言うんだけど、その子と話しながら帰ってたらうっかり……」
祖母は口元の深い皺をしみじみとさらに深める。そこから優しさがにじみ出るようだった。
「ああ、あの風車んとこの子だろう」
「そう」
「どんな子かい?」
話が母の発作から外れたものだから、私は少しびっくりした。
「みんなといるとき、すっごい明るい。誰にでもニコニコ話しかけて、気付いたらみんなも笑ってる。でも本当は、恥ずかしがり屋かもしれない、二人の時はそうだった」
祖母は満足げに微笑んだ。
「きっと都会(まち)で沢山の人の中で暮らしてきた子なんだろね、だから大勢の中での立ち居振る舞いが上手なんだよ。勇払でそんな子に出会えたのは凄いことだよ、藍ちゃん。沢山の人と出会うってことがなかなか出来ない場所だからね、ここは。これからも仲良くできるといいね」
そうか、凄いことなのか、と半信半疑に思った。私はこくんと頷く。
その次の週に招かれた翼の家は、鉄筋コンクリート造で洋風の戸建てだった。一番上の窓がまんまるなのがかわいい。中は広く明るく白く、眩しかった。女三人で暮らしている木造の祖母の家には無い、別種の清潔感と生活感に満ち満ちており、私には少しばかり居心地が悪かった。
「いらっしゃい藍ちゃん」
玄関で朗らかに迎えてくれた翼のお母さんは、優しげに私に笑いかけた。なんだか都会っぽい感じの、綺麗な人だと思った。スカートの仕立てが良くて、サイズのぴったり合ったブラウスで、爪がつやつやしているあたりが。
「こんにちは、お邪魔します」
どぎまぎする。私は上手く笑い返せただろうか。些細なことが気になって仕方ない。 玄関の奥に見えるドアが開いて、翼が短く
「おう」
と言った。 やっぱりちょっと足元を見ながら歩く、押し黙ったままの翼に案内されて二階へ上がる。翼の部屋は男の子らしさを体現したような空間だった。家具にはところどころ青の差し色が入っていて、天井には天窓があり、空がぽっかり顔をのぞかせていた。漫画雑誌や海辺で両親と撮った写真が収められたフレーム、サッカークラブのユニフォーム、黒いランドセル、水色の四角い筆箱、学校から持ち帰ったお習字セットや絵の具、夏休みの宿題の束、が雑多に、けれどもその部屋から少しも逸脱することなくしっくりと収まっていた。ちょっと散らかっているが、汚い訳では決してない。藍にとっては最初に通されたリビングよりか、いくらか居心地の良い部屋だった。 翼は、私にオセロを教えてくれた。八×八に区切られた盤上に白と黒の石。少なくとも当時の私にとって、そのボードゲームはなんだかスタイリッシュに見えた。
「白対黒、二人でやるゲームなんだ。ルールは簡単だよ、最初は真ん中に四つの石を置いて始まって」
翼の手が慣れた手つきで石を並べる。
「んで、先攻から。自分の色の石と石とで相手の色の石を挟んだら、挟まれた石を全て自分の色に変えられる。盤上が全部石で埋まったときに、石の数が多い方が勝ち。じゃ、始めよっか」
「え、それだけ?」
私の問いに翼は頷く。
「あ、でも、石の色で先攻と後攻が決まってて、黒が先攻、白が後攻。藍はどっちがいい?」
「うーん、どっちでもいい、かな」
「じゃあ、藍は白にしよう。そしたら最初は、俺の真似をすればいいから」
そして少し迷ってから、翼は対角線上の二つの角に白い石を置いた。
「四隅の石は他の石にサンドイッチされないから、相手に取られないでしょ? 藍は初めてだから、俺より二つ石が多いところからスタートね」
ルールはたったそれだけのはずなのに、ハンデも付けてもらったのに、私は翼に一度も勝てなかった。簡単で単純そうにみえるゲームは決して単純ではなく、何も考えずに打つと必ず後で仇となって返ってくる。翼は私の一手に時々いたずらっぽく「それでいいの?」と言ったりしてからかったが、私にはその意味が瞬時には分からず、大抵後になってその一手を悔やむのだった。
白と黒は簡単に、私の覚束ない一手によっても簡単にひっくり返る。同じ石が何度も、白に黒にくるくると入れ替わり、盤上の様相は最初、風の強い日の空模様のようにころころと移り変わった。盤上は途中、稀に白が優勢になることがあっても、終わりに近づけば近づくほどじわじわと黒く塗り潰されていく。私はその様子が少し、怖いなと思った。対戦が終わると大抵盤上は真っ黒で、勝敗は一目瞭然で、対角線上の二つの角にぽつんと白が二つ残っていた。
何回かの対戦のあと、翼は満足げに、
「父さんが休みの日にさ、一緒によくやるんだ。父さんはつえーよ、おれ、全然勝てないもん」
と言った。
「ずるい。あと、翼だって強い」
私は少し拗ねていた。負けたからではなかった。
「そりゃ藍は初めてだからな。おれだって勝てるよ」
翼はいたずらっぽくニカッと笑う。えくぼの出来た頬を、私は少し恨めしげに思った。
そのとき、コンコン、とドアをノックして、さっきの優しそうな綺麗な人が、翼のお母さんが、ショートケーキがふたつ乗った盆を持ってやって来たもんだから、私はさらに拗ねてしまった。
ショートケーキ。特別な食べ物が、なんでもない日に出て来る家だ。
「あっ、母さんそれ駅前の⁈」
「そうよ~。女の子が来るって言うんだもの、お母さん駅前の銀行に用事あったし、買ってきちゃった」
盆を部屋の真ん中の机に置こうとして、盤上で明白に分かる勝敗と、私の顔を見たその人は
「あら、翼ったらまた! ちょっとオセロが得意だからってすぐお友達にやらせて負かすの、ほんとに意地が悪いわよ。藍ちゃんごめんねえ」
と言った。翼は横で「違うって!」と何かを否定している。私は、あわてて笑顔を作ろうとした。
「だいじょうぶです、楽しかったから… …」
恐縮した私を、その人はなぜか、ちょっと、かわいそうな子を見るような目で見た、ような気がした。
「ほんとう? 嫌だったら付き合ってやらなくていいんだからね。翼、てっぺんの苺、藍ちゃんにあげたら? どうせ藍ちゃんを負かせたの、一回きりじゃないでしょ」
いたずらっぽいような声音。その奥に含まれたほんのり苦いような感情を、哀れみを、人の噂話で暇を潰すような小さな町に住む子供である私は、敏感に察知した。それが「哀れみ」だと分からなくとも。
嫌な心地がした。別に、オセロに負けたことは私にはどうでも良かったし、翼のお母さんだって本当はそんなこと、分かっている気がした。
机からオセロの盤が下ろされて、代わりにケーキとお茶の入ったグラスが並んだ。翼は自身の母が去ってから、ちょっと言い訳をするように
「別に藍を負かしたくてオセロしたわけじゃないんだ」
と言いながら、てっぺんの苺を手でつまむと、私のショートケーキの上にそっと置いた。
「ありがとう」
私は素直に受け取っておくことにした。苺の無いショートケーキと、真っ赤な苺がふたつ乗ったショートケーキ。どちらも本来の完璧な姿は失われて、歪だった。
「お父さんとオセロするの、楽しい?」
私たちはケーキを突っつきながら、ぽつぽつと話した。
「うん」
ケーキと一緒に出されたお茶は麦茶じゃなくって、ベリーの香りがする紅茶だった。私はそれを小さく一口こくりと飲んでみて、ケーキには合うけれどもすべてが違うと思った。
「父さんさ、いっつもオセロは運のゲームじゃないんだぞって言うんだ。知恵を絞って実力だけで勝負するゲームなんだって」
「へえ、なんか先行の方が有利とか、ありそうだけどね」
「違うんだってさ。でね」
翼は一呼吸おいてから、神妙な顔つきになった。
「世の中で運が結果をサユウしないのはオセロみたいなゲームくらいだって言うんだ」
翼は、父の言葉を消化しきれずに、それをそっくりそのまま借りてきて復唱するかのように言った。
「へえ……」
私はどう返せばいいのか分からない。
「父さんがさ、風車のカンリガイシャの社長だって言ったでしょ」
「うん」
「風車ってね、建てちゃったらあとは全部運なんだって。その日どれだけ強い風が吹くか、どっち向きに風が吹くか、そういうのが全部運で決まるから、だから難しいんだって。父さんたちがいくら頑張っても風車が回らない日があるって言ってた。でもおれはさ、それが悔しいんだ。父さんは毎日いっぱい働いてるから、おれは絶対、なんかわかんないけど、風車はもっと上手くいくと思う」
「そっか」
私は翼の拙い話を聞きながら、私の父は今どんな仕事をしているのだろうと思った。私は、父がどんなふうに頑張っているのか、何も知らない。時々勇払に来るときは、父は決まって休日だ。私は「お休みの日のお父さん」しか知らなかった。
「私もわかんないけどさ、風車って真っ白で綺麗で完璧だって思ってるよ」
その返しが良かったのかは分からない。翼は嬉しそうに笑った。それだけは確かだった。
その日、帰り際に翼は家まで送っていくよ、と言った。私はそれを丁寧に断った。なんとなく、翼には家に来て欲しくなかった。
「じゃあね」
「ばいばい」
それだけのシンプルな挨拶を交わして、翼の家を出た。少し歩いてから振り返ると、翼はまだ家の前にいて、控えめに手を振ってくれた。翼の家の向こうには、夕陽がほんのり滲んだ空をぐるんぐるんとかき回す風車が見えた。白い壁のかわいい家、その前に立つ少年、風車が立つ平野、その全てを包み込むような夕陽。それはもしかすると、本当に完璧な光景かもしれなかった。
私は小さく手を振り返すと、家までの道を駆けだす。すぐに帰りたいわけじゃなかった。ただ、私はその時、あの獣が襲い掛かってくるような気がしたのだった。私がいなくなってしまうかのような不安。完璧を目の前にすると、完璧を持っていない人間はそこから逃げ出したくなるのかもしれない。
私は、茜色になりゆく空を背に、家までの道を逃げ帰った。
その日から、風車は私の中の特別になった。風車と言えば、そう、それは完璧の象徴だった。
八月、お盆。風の強い日だった。 私は祖母と母と三人で、一家のお墓参りに来ていた。風が強く吹く度、行きがけに持たされた仏花が私の腕の中でばさばさと音を立てた。お墓を丹念に拭いている母と祖母を横目に、私はふらりとその裏手に回る。そして暇つぶしがてら、墓誌に刻まれた文字を古い方から順々に目で追っていった。生没年と名前が並んでいるが、古いものは削れていたり旧字だったりして読めないものも多い。その末に、抜きん出て新しい文字があり、そこで目を止めた。
平成十四年五月八日生
平成十四年九月十九日没
茜
その生年月日は、私と同じだったのである。
私は、今しかないと思った。あの時、隠して忘れようとしたその名前、その正体を尋ねるなら今しかなかった。
「ねえ、ここに書いてある茜って誰?」
母も祖母も、一瞬凍り付いたように手を止めた。これまで共に暮らしてきた三人の間を、今まで感じたことがないくらいの張りつめた緊張感が駆け巡った。しばらくして母は大きく息をつき、意を決したように
「ごめん、お母さん、今まで言えなかったことがある」
と言った。祖母は全てを理解したようで、母に向かって大きく頷いた。
お墓周りの片付けを祖母に託し、母と二人、家に帰り着く。
「居間で待ってて」
と言われ、私は神妙に食卓に座った。母は二階に上がって自室から母子手帳を取り出してくると、そこに挟まっていた一枚の写真を見せてくれた。保育器に入れられた新生児が二人写っている。
「こっちが藍、こっちが茜。双子だったんだ、藍がお姉ちゃん」
「え?」
母は私の目をじっと見た。母の目は黒くて、私を小さく映し出す。
「そう、藍は茜と、双子だったの」
信じられなかった。何を思えばいいのか、何も分からなかった。ただ私は、知らないことを、茜のことを尋ねることしか出来なかった。
「ねえ、これは?」 母が茜だと指さしたその小さな体には、無数の管が繋がれている。母が横で少し体を緊張させたのが分かった。
「二人とも生まれた時から他の子よりうんと小っちゃくて、しかも、茜は心臓が変な形をしてて、それで……」
説明する母の声が、だんだん小さくなっていく。
「その茜ちゃんが、えっと、いない、のは……、変な形だった心臓のせい?」
母はそっと目を閉じ、頷いた。 これは後から聞いた話だが、双子であることが分かった時に母は里帰り出産することを決め、この近くの病院で産んだらしい。重度の心疾患児だった茜は、そのまま病院で四か月間治療を受けるも亡くなり、生まれた地のあの墓に埋葬された。
母から離れることのない恐ろしいあの獣が生まれたのは、その双子の妹が死んだ時だったのだ。
「藍は気遣いの出来る優しい子になってくれたね」
母は唐突にそんなことを口にした。
「藍はさ、普段お父さんが家にいないのはどうしてって聞くことがあっても、ちゃんと答えられなかったお母さんを怒らなかったよね」
そんなこともあった気がする。そうだ、小学校に上がったばかりの頃だ――。
「だって、あの時のお母さん、なぜか悲しそうだったから」
母は微笑んだ。悲しい微笑みだった。
「お母さんね、藍と茜が生まれて、茜が死んじゃって、藍がひとりぼっちになってからずっと、ずっとね、藍もいなくなっちゃうんじゃないかって、怖くて怖くて堪らないの。」
知っている。私にも、分かる。私がいなくなってしまうかのような感覚。思い出す、町の人が私を見るときの目、私というよりも「かわいそうな子」を見るときの目。父が遠くにいるから、母が「パニック」を起こすから――。
双子の妹と生き別れた子だから。
私ではない「かわいそうな子」が、私の中で口を開く。――お母さんの中で、藍は茜で茜は藍なんだよ。これからもずっと、藍は双子の片割れでしかないんだよ。
その時、私は少し大人になった気がした。人間が平等なんかではないことを、はっきりと知ってしまったからだった。
あとから詳しく聞いたところによれば、母はどうしても茜がいたこの勇払を去りたくない、祖母も母と娘のことが心配で堪らない、父は仕事が忙しい、ということで私は勇払で育てられることになったそうだ。
目の前で明るみに出た事実に、私の心の中は次第にぐるんぐるんと、静かに激しく渦巻いた。妹がいたことを知った時にはもうずっと前に妹は死んでいて、親戚一同はそれを私に隠していて、なんにも知らずに私だけが元気に生きていて。妹は、茜は、私だけが無事に大きくなったことを怒るかな、と思った。どうして同じ日に生まれたのに、妹だけが死んじゃったんだろう、それはとても悲しいことのような気がする。でも、涙は出てこなかった。
どうして教えてくれなかったの、と聞こうとして顔を上げると、これまでに見たことがないくらい悲痛な母の表情が目に入った。母子手帳がぎゅっと握りしめられている。
「ごめんね、お母さんダメなお母さんだ」
と母が呟いた、それが私に対してなのか茜に対してなのかが分からない。その時の私には、そんな母をまるごと肯定できるほどの余裕がなかった。私も私で、事実を抱えるだけで精一杯だった。 私はもう、母の顔を見ていられなくなって、何も言えなくって、外に飛び出した。
あてもなくふらふらと歩きながら、茜が生きていたら、どんな毎日だったかなあと考える。毎日一緒に学校に行って、宿題も二人でやればあっという間に終わるかな、夜は二段ベッドで寝たりして、きっとお父さんもいる東京で、四人で暮らすのだろう。それはとっても完璧な日々なんじゃないかと思った。
しばらく歩いて風車の周りのフェンスが見えてきた時、そこにしゃがみ込む男の子が見えた。私に気付きこちらを振り向いたのは翼だった。
「あ、藍」
「どうしたの?」
と聞くと、翼は静かにフェンスの向こうを指さした。得体の知れないものが視界に飛び込んでくる。
「わっ」
近寄って見ると、そこには片翼がもげて血まみれになった大きな鳥が横たわっていた。もげた翼はどこにも見当たらない。鳥の片方の肩からピンクの肉がのぞき、そこから鮮烈に赤い血が流れ、辺りの草原には血の付いた羽根が散らばっていた。すべてが片翼の喪失を示していた。
「多分、風車の羽根にぶつかっちゃったんだ」
翼は浮かない顔で、二十メートルほど離れたところに立つ風車を見上げる。こんな大きな羽根に、鳥が勝てるわけがなかった。風は鳥に味方しなかったのだ。
しばらく二人でその鳥を見つめていると、私はひとつのことに気が付いた。
「この鳥、私と一緒だ」
「え?」
きょとんとする翼に、私はさっき母に明かされたことを全部話した。私は本当は双子だったのに、片方が先に死んじゃって、嘘でもなんでもなくて、ほんとうに、片方の翼が無くなったこの鳥と私はお揃いなんだ、と。この時の私はほとんど涙目だったと思う。混乱し尽くして、心の底からどうすればよいのか分からなくなった人間は、無意味に泣けてくるのだということをその時初めて知った。
翼は、困ったような顔をした。いつもは利発そうに真っ直ぐ伸びる眉が下がっていた。そして、でも藍は生きてる、というようなことをもごもご言った後に、急に血まみれの鳥に向き直ると
「ごめん!」
と叫んだ。風車の管理人の息子が、鳥に対して出来ることはそれくらいだった。私たちはその場で等しく無力だったし、完璧でもなかった。風が強く吹く度に、私たちはそのことを思い知る。為す術など、どこにもない。風は、吹く強さもその向きもすべてが運だ。風が吹くことで、良いことも悪いことも起こる。
そう、その日は風が強かった。
鳥を殺した風車は、私たちの遥か頭上で平然とぐるんぐるん回っていた。
その年の終わり、私は東京へ引っ越す。母のパニック障害やそれに伴う抑鬱症状が寛解し、茜が四ヶ月間生きた土地を離れ親子三人で暮らすことに前向きになれたからだった。
そしてそれ以来、翼には会っていない。
◈
翌朝起きてみて、私は窓の外の景色にあっけにとられた。
風車が、無い。
昨日は、駅から風車があったところを背にしてここまで歩いてきたから気付かなかったのか、と思い返す。
転がるように階下に降りて祖母に問いただすと、四年ほど前に解体されたと言う。
「勇払は珍しい鳥がいっぱいいるとかで、環境省だったと思うけど、解体の要請を出したんだってさ。なんでも、鳥って風車にぶつかってしまうんだと」
昔見た、あの鳥が脳裏に浮かんだ。
「ねえ、翼のことって……、何か知ってる?」
「風車んとこの大原さんちの子かい? さあねえ、会社の方は潰れたりして大変だったと聞いたけど、あの子のことまでは… …」
その時、母がキッチンから顔を出し、
「知らなかったの?」
と言う。
「うん」
「そっか、藍はそのころ高校受験だったからかな、忙しかったもんね。東京帰ったら調べてみるといいよ、けっこう大きなニュースになってたから」
母はちょっと苦いような、そんな顔をした。そして
「さて!」
と張り切って言った。これは暗い空気感を変えるときの母のやり方だ。元気になって東京で暮らすようになってからの母は、時々こうやって率先して明るく気丈に振舞うことがあった。
「武志おじちゃんとこ、挨拶行こう。そしたら、移動して、うん、飛行機の時間に丁度良いくらいだし。ほらおばあちゃんも」
母に急かされるようにして、三人で最後の荷造りを済ませると、歩いて五分ほどの武志おじちゃんの家へ向かった。
武志おじちゃんは、がっしりとした肩幅や腕、節くれだった太い指、ちょっと彫りの深い顔立ちに刻まれた皺、大口をあけてカカカと笑う時に見える並びの良い歯、何一つ変わらないまま、それでも少し、小さくなったように見えた。それは私が大きくなったからかもしれないし、武志おじちゃんが老いたからかもしれないし、そのどちらもかもしれなかった。武志おじちゃんは目を細めて
「大きくなったなあ、藍ちゃん」
と言った。頻繁にメールや電話のやり取りをしていた祖母とは違って、武志おじちゃんとのやり取りは年賀状くらいのものだったから、祖母よりもうんと、私の成長を感じたらしかった。
「へへ、大きくなったよ。あ、あと昨日のお蕎麦、やっぱり美味しかった、武志おじちゃんの蕎麦が一番美味しい」
「その照れたあとに話を変える感じ、藍ちゃんは変わらんなあ」
と、武志おじちゃんはちょっと腕を伸ばして、背の伸びた私の頭を遠慮なくガシガシと撫でた。「変わらない」と言ってくれたことがどことなく嬉しく、それはきっと東京で暮らすようになってからの私が、勇払にいた時の私より幾分か背伸びをして、大人っぽく振舞うようになったからだった。家族の秘密を知ってからの、両親との三人での暮らし。当時は幼心にも気を遣ったものだった。――そして今も、私たち家族三人の暮らしは、どことなく覚束ない。お互いがお互いを想っている、けれどもお互いの優しさがお互いへ向ききらないまま、三人の真ん中にある空白の周りをくるくると空回りしているような、そんな感じ――。
「夕子ちゃんも、勇払を出た時よりもうんと顔色が良くなったね、おじちゃん嬉しいよ」
「おかげさまで」
祖母は控えめに、けれども幸せそうにそのやりとりを眺めていた。武志おじちゃんは祖母に向き合うと、さっぱりとした挨拶を交わした。
「じゃ、ねえさんも元気でな」
「お互い老けたからね、武ちゃんも身体、気を付けるんだよ」
「当たり前よ、俺ぁここで一生蕎麦を打つって決めてんだ、まだまだ現役よ」
武志おじちゃんはカカカと笑った。祖母はそれを眩しそうに見て、あんたは本当にこの町が好きだねぇと独り言のように呟いた。
飛行機に乗り込んでから、私は隣の祖母にひとつ質問をした。
「おばあちゃんさ、急にあの家を出て東京に来るの、寂しくない?」
祖母は何でもないように答える。
「寂しいことなんかひとつもないよ、夕子がいて、藍ちゃんがいて、これから東京の新しい人達にも出会えるんだろう? ホームの人たちだから老いぼればっかりだろうけど、ふふふ、でも新しい友達が出来る。寂しくなんか思う暇ないよ」
祖母は愉快そうに笑った。
「勇払の人たちと離れるのは寂しくないの?」
「大丈夫さ、これから会えなくとも出会ったことが無くなるわけじゃない」
祖母は私を見て、ちょっともったいぶってそう答える。そしてまた、ふふふ、と笑う。
「武ちゃんは別さ、あれは勇払っていう場所が大好きなんだろうよ。きっと死ぬまで、あのだだっ広い平野のある町を眺めていたいのさ」
親類の中でたった一人になっても勇払に残った武志おじちゃんと、娘家族がいる東京に来ることを選んだ祖母。その対照的な選択を、私はどちらも誇らしく思った。人は何歳になろうとも、自分の人生を自分で決めて生きていける。そう思うと、心強く思うのだった。
祖母の引っ越しが無事済んで落ち着いた頃、私は勇払原野の風車について洗いざらい調べた。
風車、ひいては建造物や飛行機などの乗り物に鳥類がぶつかることをバードストライクと呼ぶそうだ。風車は特に、再生可能エネルギーという未来的で魅力的なイメージが先行し、そこに何か不都合が起こることなんて誰も考えられなかった。
そして勇払原野は、海の向こうからの風が海岸線に沿って安定して吹く、風力発電の好適地だったわけである。そこに目を付け勇払での風力発電事業を計画したのが北海道電力で、これは翼が言っていた通り、そのプロジェクトリーダーが翼の父であったらしい。翼の父は野心的な人で、再生可能エネルギーとしての風力に大きな期待を寄せ、主に風車のメンテナンスなどを請け負う株式会社大原風力開発を設立する。その業績が安定してきた頃に、明るみになってきたのがバードストライクの問題である。
勇払原野は風力発電の好適地である前からずっと、鳥たちが空を渡るための「風の道」が吹く土地だったのだ。
希少鳥類の保全活動に取り組む日本野鳥の会が、環境省を通じ北海道電力に解体の要請を出したのが今から五年前、北海道電力との契約がその事業の八割を占めていた大原風力開発は、動物愛護の世論の追い打ちも受けてそのまま倒産に追い込まれた。
そう、翼は勇払にいられなかったのだ。
私は風車って完璧じゃなかったんだ、と思った。そして、誇らしげに父について語っていた翼のことを、大学で見かける現在の翼のことを、どうしても考えてしまうのだった。
大学構内では桜が咲き乱れ、落ちた花弁が春の風に吹かれて足元で渦となる。私は大学二年生になった。新学期が始まって構内を期待や緊張で顔をこわばらせた一年生が歩いている中を、私は別の理由で顔をこわばらせながらそわそわと歩いていた。
風車、それがきれいさっぱり無くなった勇払原野の景色が、頭から離れない。かつて私たちの頭上でぐるんぐるんと回っていた風車、片翼がもげた鳥、それを見つめる翼。すべてが私の周りで渦を巻いて、私は身動きが取れなかった。息が詰まるようだった。渦のなかを激しく吹きすさぶ風に、口を塞がれたような心地がしていた。
今日こそは――。
四限後の食堂棟の裏口。そこで食缶なんかの搬出作業をしている翼が目に入る。学食の配膳のおばちゃんたちに控えめな笑顔で応える彼の、雰囲気や横顔、えくぼ。何も変わらない。そして、くるりと踵を返して軽トラに戻る彼の割烹着のような制服の胸には「大原」と書かれている。口を開くと、下唇にジンと血の通う感覚がして、これまで無意識に下唇をきつく噛んでいたことに気付いた。それはなんだか、生きている、という感じがした。
「翼!」
呼び止められた彼は目をしばたたかせた後、ハッと息をのんだ。
「え、藍?」
私は大きく頷いた。
「ちょっと待っててな!」
業務に戻っていく翼の後ろ姿を目で追いかけながら、その大きく頼もしくなった背中に過ぎ去った年月の長さを見た。そして私は、再会して良かったのだろうかと鼓動を早くしてみたり、長い時間を経ても変わらない彼の立ち居振る舞いを目の当たりにして安心してみたり、その心を忙しくさせながら翼の戻って来るのを待っていた。
ひとまずの作業を済ませた翼と私は、気まずい空気を拭い去れないまま、ぽつぽつと当たり障りの無い近況を話した。
翼は今、大学や高校の食堂運営会社の配送員として働いているという。
「ごめん、仕事の邪魔した?」 「いや、今日の仕事はここの大学で最後だし、大丈夫」
翼はふうっと息を吐いた。
「さっき上司にも、北海道の頃の知り合いと再会したから少し遅れるって電話した。問題ないよって優しく言ってもらえたよ」
「よかった」
私は、普段から翼の仕事ぶりが良いんだろうな、とそこから察した。十年前よりもうんと低くなった彼の声は、低いがゆえに落ち着いて聞こえるのではなく、彼が真面目な社会人であることを示しているのだと思う。
そして翼は、私の抱く疑問を先回りするように、せっつくように、話し始めた。
「勇払の風車が解体されたの知ってるでしょ? それで父さんの会社が潰れてさ、父さんは過労でそのまま死んじゃうし。母さんの地元がこの辺だから帰ってきて、今は俺も働けるようになったけどさ、生活はギリだし、母さんは鬱だし……」
翼はそこで言葉を区切ると、なにかを飲み下すみたいにごくんと喉を動かした。その動作を見て、私はなんとなく、より身構えて彼の話を聞こうと思った。翼にかけるべき言葉が見つからない、なんて言葉は不自由なのだろう。私は聞くことしかできなかった。
「俺さ、今思えばひどいんだけど、藍のことかわいそうなヤツだって思ってたんだ。藍から聞くより先に、母さんから藍んちのなんとなくの事情を聞いてた。」
「そうだったの」
「そう、俺の母さんさ、妹ちゃんが生きていてくれれば藍ちゃんはもっと明るい子だったかもしれないね、とか言ってたんだ。ひどいよな。俺も俺でそれを聞いてさ、藍はどうしようも出来ないかわいそうな目に遭った子だって、思ってた。父さんも、藍ちゃんには優しくしてあげなさい、とか言っちゃってさ。でもそれって、俺たち家族があの時は……。はぁほんと、バカみたいだよ、そのあとこんなことになるなんて、家族の誰も思っちゃいなかった」
ぐるんぐるん回り続ける風車のごとく、翼は喋り続けた。スピードを増す回転を前にして私は、ああやっぱり、この大学に居合わせた偶然をただの偶然のままにしてはだめだ、と思った。ただの偶然に、決定的な意味を与えなければならないと思った。偶然を運命に変えるのは私だった。
「ねえ」
私だけではない。私を含む生きている者は皆、片翼をもがれた鳥と同じ。
「誰もがそういう逆らえない力に負けてしまう時があるんだよ」
生まれてすぐに死んだ双子の片割れや、風車によってもがれた鳥の片翼。
風向きがいつ変わるかなんて、誰も知らない。知り得ない。すべては偶然の重なり合いの上にある。その残酷さ、遣る瀬なさを各々が抱えて、生き物はみな風の道を歩いている。
「そして人は弱いから、お互いに出会うんだと、私は思う」
なんだそれ、と翼が笑った。そして、そうだといいな、とぽつんと言った。
「私ね、ずっと翼が、ここで働いてるの知ってた。一年生の時から、気付いてたの。でも、知りたくなかった、翼が何で勇払から出てきたのかとか、進学せずに働いてるのかとか、知る勇気がなかった」
翼が顔を上げる。
「でも、やっぱり、声を掛けてよかった。もう一回翼に会えて、私よかったよ」
私は翼に右手を差し出した。翼の右手はその手を、ぎこちなく握り返してくれる。
「俺も」
翼は自分の足元を見ながら、やっぱりちょっと照れたように言った。
その時、西の空で雲が途切れた。向かい合った翼の横顔を、明るく暖かい色の光が強く照らす。思わずそちらを見やれば、遠くの空に燃えるような夕陽が見えた。
どんな風が吹こうと、風はいずれ雲を払いのけ、私たちの元へ夕陽を連れてくる。
私は、家に帰ったら茜の話をしようと心に決めた。茜という空白を見つめられた時、私たち家族はきっと、不完全なまま、本当の意味で家族になれる。私は双子の片割れのままで、藍というれっきとした一人の人間になれる。それは確信だった。茜色の夕陽は藍色に染まる夜へと連なる。きっと明日も、この世界の理に従って陽が昇り、朝陽が茜のいたはずの空白の輪郭を縁どって美しく光るだろう。光る空白を介して私は、母や父、そして私自身とも、手を取り合うのだ。強く、強く、決意した。
夕陽を見つめる私たちを、風が頬を撫でるように過ぎ去っていった。
茜色に染まる空の奥から、すべての生きものに風が吹く。それに飛ばされないように、人々は手を取り合う。