陽光と月
2022年冬、霧の中で必死に書いた小説です。
稚拙ですが、良ければ暇つぶし程度に……。
私は狭いバスルームの鏡の前に立ち、胸の上の赤いしるしをじっと見つめていた。身体をつうっと水滴が滑り落ちる。辺りには水蒸気が満ちていて、私の肌を柔らかく包んでいる。
彼の舌が私の胸を這い、ちょうどそのふくらみが始まるところに吸い付いた瞬間、肌の表面でゆっくりと広がっていった小さな痛みを覚えている。私は赤いしるしをそっと撫でる。頭上で換気扇の低い音が響いていた。濡れて重くなった髪が背中に張り付いていた。
バスルームを出ると身体から熱がすっと放たれて、ぼんやりしていた頭から水蒸気のむっとした感じが抜ける。身体を拭きながら、私は昨晩のことを思い返していた。
記憶は断片的に、頭の裏側に張り付いている。それを丁寧に剝がしていく。皮膚の上のかさぶたを引っ張るみたいに。剥がしたところから血がじんわりと滲んで、生きている心地がする。
昨晩、私たちがいつ、どのようにしてベッドに入ったのかを覚えてはいなかった。どちらもひどく酔っていた。酔っているのはいつものことだ。昨晩も、気が付けばベッドにいた。ひんやりとしたシーツが、酒で火照った身体に気持ち良かった。彼の腕が私を引き寄せて力を込めて抱きしめたとき、世界が歪むような眩暈を感じた。彼が私に覆い被さって私の鎖骨を丁寧に撫でていた。そして、その骨ばって分厚い手は私の首に行き着いて、ぎゅっと力を込めて掴んだ。そのとき顔に上った密度の高い熱は、苦しい、というよりも、実感、だった。首を絞める力がふっと緩んで頭に空気が吹き込まれたとき、私はひどく悲しくなった。そして、少しだけ泣いた。下着を脱がされ、それが私に押し込められた。せり上がる圧力が、次第に私の目から涙を押し出した。また、少しだけ泣いた。すこぶる無意味だった。何もかもが。
互いの輪郭を確かめ合うようにして、二つの身体が絡まり合う。そして同時に、私たちはどうしようもなく二つの個体であり、決して溶けあうことはないことを知る。互いの無意味さを転じることの出来る力はない。片方が死んでも、片方は生きていく。その事実を知覚する度に、私たちは暗闇に呑まれた子供のように悲しくなって、だからこそ身体の中の細胞、そのひとつひとつが互いを求めた。私たちの行為はそれ以上でも以下でもない。行為の先にあるのは孤独と、諦念と、天井から降ってくる抗いようもない眠気だ。
彼と初めて出会ったのは丁度一年前で、その出会いは至ってありきたりなものだった。私の大学からの友人の、高校の同級生が彼だったのだ。その共通の友人が誘ってくれた新年会に彼もいた。たったそれだけの、あまりにありふれた繋がりだった。彼は輪の真ん中にいて誰の前でも明るく賑やかに、表情を豊かにして話す人だった。その頬には笑窪があって、彼が笑うとその奥から明るい鈴の音が聞こえてきそうだと思った。反して私は、輪の外縁近くにいて静かに人の話を聞いているような人だった。たまに口を開いてもそれは友人の話に対する考えを述べる程度で、決して自分から話し始めることはない。私たちはまるで太陽と月のように正反対だった。私は彼の話を聞いて穏やかに笑い、彼は私のそんな態度を見てか、私に話す時だけは言葉を緩やかに連ねてくれた。
二度目に会ったのは病院の待合室だった。窓から西日が差しこんで、冬の暖色に傾いた光が待合室を満たしていた。横開きの診察室の戸がするすると開いて出てきたその人は、眩しそうに目を細めながらその光の中に溶け込んだ。私がその人は彼であると気付いた時、正反対のように見える昼と夜とが繋がっていることに思い至った。その気付きは鮮烈だった。私たちは昼と夜とが交わる夕暮れの待合室で、今一度出会った。そのことに意義を見出してしまったのは、彼も私も変わらなかった。
私と目が合って、彼は諦めたように
「どうしよう、隠していたのに」
と言って笑った。私は微笑んで
「困ったね、似た者同士だったみたい」
と返した。
そこは精神科の待合室だった。
私の横にすとんと腰を下ろした彼は、目の前のマガジンラックを眺めながら何を話すでもなくぼんやりとしていた。くるくると表情を変えながら賑やかに話していた彼とはまるで別人だった。私たちの間を、空を映し出す凪いだ湖のような、透明な沈黙が流れる。
「笠原さん、診察室へどうぞ」
受付の女の人の声がよそよそしく響いた。行っておいで、と彼の目が言う。
診察が終わって部屋を出ると、彼はさっきと同じ場所に腰掛けたままだった。手には処方箋があり、つまりもう帰れるはずだった。横に腰掛けると、彼はやはり
「陽奈さんを待ってたんだ」
と言って処方箋をひらひらさせた。私は
「薬局デートなんて聞いたことない」
と笑った。彼も笑って
「しょうがないじゃないか、ここで再会しちゃったんだもの」
と言った。
近くの薬局は全てが真っ白で、座っている私たちの輪郭はその白に侵食されてしまいそうだった。私には自分がどうしようもなく異物であるように思われて仕方がなかった。
袋がぱんぱんになるくらいの薬を順番に受け取って外に出た時、私たちはひたひたの夜にとぷんと飲みこまれた。街の全てが夜の始まりの中にあった。
「朔也さん、この後お暇?」
私の声は街ゆく人の流れに乗り損ねて辺りを漂い、彼がその声を掬い上げてくれた。
「たっぷりあるよ」
私は彼と話がしたいと思っていた。
「ご飯でもいかがです」
「よろこんで」
彼はにこりと笑った。笑窪からは澄んだ鈴の音が静かに聞こえてきそうだった。
私たちは駅前の古びたビルの一階にある、年季の入った喫茶店に入った。なんとなくピカピカと新しいファミレスや、人の声に満ち満ちた居酒屋に入る気にはなれなかった。眼鏡をかけたすらりとしたウエイターに案内されて、ふかふかとした赤い布張りの椅子のある席に通される。テーブルは細かな傷が走り、気持ち良く使い込まれていて、あたたかな感じがした。向こうの席でおじいさんがバサバサと新聞紙を捲った。彼の骨ばった手がメニューを開き、
「どうしようかな」
と言った。その割に、あまり迷いもせずにオムライスを指さした。
「僕はオムライスで。陽奈さんは?」
私はメニューを受け取り、最初に目に付いたナポリタンを選ぶ。
ウエイターを呼んで注文を済ませると、彼が口を開いた。
「それで、陽奈さんはなぜ病院に?」
私は肩をすくめてみせた。もう、そうするしかないのだ。
「高二から鬱」
「あら。すると四年? 長いね」
「鬱が板についてきた頃合」
私が少しふざけると、彼も
「大変だ」
と軽い相槌を打った。
「朔也さんは?」
「双極性障害。僕は大学一年の冬からだけどね」
「なるほど、躁があるタイプだ。じゃあ新年会の日も?」
「そうかもね。今は元気ないよ、冬だし」
料理が運ばれてきて、会話が途切れる。「オムライスの方」と呼ばれて小さく手を挙げる彼はやっぱり、初めて会った日の彼とはまったく違う人のようだった。
まん丸とろとろの黄色いオムライスの上に、彼がデミグラスソースをかけるのを眺める。黄色のちょうど半分くらいがデミグラスソースに染まる。私は鈍く光るフォークを手に、くるくると麺を絡めとった。お互いの病気の原因だとか辛さとか、そういうものを言い合ってみるのも悪くないかもしれないけれど、そういう会話を交わしたところで私たちが病気であることに変わりはない。そう思って、私は
「朔也さんは大学どこ?」
と、なんともつまらない質問を投げかけた。
「え、新年会で言わなかった? M大学。陽奈さんはS大学でしょ、お隣」
「あれ、そうだっけ」
「うん。そりゃ通院先が一緒なのも頷けるよね」
「たしかに」
つまらない会話はどこにも行き着かず、仕方なく私たちは目を見合わせて、二人で大袈裟に肩をすくませてみる。彼が意味ありげに首をかしげて、それを見た私はふふふと笑う。向こうに座っていたあのおじいさんは、気付けばいなくなっていた。窓の外では夜が深まっている。喫茶店のライトの橙色に照らされている私たちだけが、ぽかんと夜に浮かんでいるようだった。
私たちは夜の喫茶店で、お互いの秘密を真ん中にしてそれに凭れかかるように、どちらからともなく心を許しあった。そのとき、明日も講義があることだとか、水道料金の支払いを忘れていることだとか、そういった生活の全てはどうでもよくなった。そう、些細な事だった。ただ二人が向かい合って座っているという事実が何よりも重要だった。
抑鬱的な日々の連なりにおいて時間はのっぺりとして色を失い、昨日も一か月前も一年前も明日も、混然とひとつになって私の目の前に広がっている。ずっと前からそんな調子で、それゆえに記憶は全てが混ざり合って溶け合って霧の中にいるように曖昧で、けれども私たちが再会したあの日だけは、霧の中でふんわりとした光を放ってそこにあった。記憶の霧が少しだけ晴れて辺りが見えてくると、その光は周囲に紛れて見つけられなくなる。霧が濃くなって何も見えなくなると、気付いたらその光が遠くから見えてくる。どうしようもなくなって、目の前のたった一つの光へ手を伸ばす。
私たちが会うのは、大体そういう時だ。霧の中にいるどちらかが、もう一方を求めている時。二人の真ん中にある秘密の、その引力に引き寄せられるようにして。気付けば、週に一度は会う関係になっていた。周りからは恋人同士に見えているのだと思う。私だってこの関係に名前を付けろと言われたら、恋人関係にあると答える。けれども内実、私たちの関係はただの恋人ではなかった。恋人よりもずっと、結託、していた。積極的な生からも積極的な死からも逃れ続けたその先で見つけた光が、何者かに吹き消されてしまわぬように守っていた。
私たちは会えば大抵酒を飲む。私も彼も、酒を飲むのは好きだった。昨晩も彼の暮らすワンルームで、憂鬱をアルコールで溶かしたくて、生々しい生活を遠ざけたくて、すいすいと水を飲むみたいに飲んでいた。次第に思考の道筋は霧の中に入り込み、世界には私と彼だけがふわふわと浮かんでいて、どちらからともなくお互いを求めて手を伸ばした。触れられるところに彼の体温があって、けれどもそのあたたかさに触れられるという事実が、私が生来孤独なひとつの個体であるということを明示していた。
目が覚めたらくっきりと生活が浮かび上がる部屋にいて、酒の缶が乱立するローテーブルが私の目に入り込んで、全てが嫌になってバスルームに逃げ込んだのだった。身体を洗って、シャワーの中でしばらくぼうっとして、仕方なくバスルームから出て、昨晩の霧の中の行為の名残を、赤いしるしを眺めていた。
脱衣所で髪を乾かしていると、起き抜けの彼がふらりと入ってきて私を後ろから抱きすくめる。
「おはよう、どうしたの」
と言う私の耳元で、彼が寝起きの熱い息と共に
「ねえ」
と言った。
「ん?」
「今日は、行かないで」
その声はとても小さかったけれど、なんだか強い力があった。私は既に、彼から離れてはならないと確信しながら、形式的に
「どうして?」
と尋ねた。今日はいつも通り、このまま大学へ行く予定になっていた。
「さみしいから」
彼はそう言った。嘘だ、と思った。彼の周りの空気は、彼の危うさが溶け込んだように揺れていた。
「分かった」
私が短く答えると、彼は笑った。子供のように無邪気で、私は彼と初めて会ったときのことを思い出した。しかし、触れればすぐに崩れてしまいそうな儚さがあった。そういう笑顔だった。
「嬉しい。ありがとう。僕もシャワー、浴びる」
彼が服を脱ぎ始めたのを、私はじっと眺めていた。彼の白い肌と、男性にしては華奢な関節と、すらりと伸びる脚を目で追った。彼の身体のどこかに綻びがないか、探していた。
「そんなに見ないでよ」
と彼は困ったように笑う。私はその顔を見て、彼が崩れてしまうような気がした。
「ごめん、ごめん。綺麗な身体ね」
「そうかな」
バスルームの扉が開いて、水蒸気が脱衣所にも流れ込む。彼が、その霧の中に消えていった。
薄暗く沈んだ部屋に戻った。カーテンの隙間から窓の外を見やると、雲は暗くて低かった。私はローテーブルの横にぺたんと座る。床に接したふくらはぎが冷たかった。ローテーブルの上に並ぶ缶を、生活の破片を、私はひとつずつ潰していく。アルミニウムが歪む音が部屋を満たす。私は、水蒸気に包まれた彼の身体がぼろぼろと崩れて、水に溶けていく様子を思い描いた。それはとても自然な映像になった。手近にあったコンビニのビニール袋に、ひしゃげた缶をまとめていく。全ての缶を入れると、私はそのまま床に寝転ぶ。バスルームからくぐもった水音が聞こえた。私の頭の中の彼は、水に溶けきった。
何の気なしに顔を横に向けると、ベッドの下に縄があった。私は至って冷静な頭で、縄だ、と思った。縄は長くて、先の方が輪になっていた。知らない結び方できつく結わえられていた。私は縄をじっと見つめながら、それもいいかも、と思った。全ては無意味だった。気付けば、バスルームの水音は止んでいた。
彼が部屋に戻ってきたとき、私はやっぱり縄を眺めたまま、
「死ぬの?」
と聞いた。彼はごく自然に、喫茶店でメニューを眺めているみたいに、
「どうしようかな」
と言った。
「眺めていてあげるよ」
私は言った。
「何を?」
「首に縄をかけたあなたがぶら下がるのを」
彼は笑った。
「この部屋で縄を吊るなら、どこがいいと思う?」
私は起き上がって、部屋をぐるりと見渡した。
「難しいことを聞くね」
いつの間にか彼は私のすぐ背後にいた。そのまましゃがみ込んで、ベッドの下から縄を引っ張りだす。
「遺書は書くの?」
私は尋ねた。彼は
「さあね」
と言って立ち上がった。
「陽奈も立ってよ」
彼が柔らかにそう言って、私を促した。私が立ち上がると、彼は私の首に縄をあてがった。そのまま手を私の後ろに回して、私を強く抱きしめる。縄が首に食い込んだ。
「陽奈も一緒に死んでって、僕が言ったらどうする?」
彼は、私を抱きしめていた腕を緩めた。けれども、ピンと張った縄は私の首にあてがわれたままだった。彼はそのまま前進した。私は壁際まで追い詰められた。彼は壁に手をついて、再び
「どうする?」
と言った。
「どうしようかな」
そう言って、私は彼の首に手をかけた。私の小さな手は、彼の首を絞めるには些か不十分な気がした。それでも強く、強く力を込めた。
「やっぱり、どちらが先に死ぬか、しっかり話し合う必要があるみたいだ」
彼は平然と言った。私の首は、縄から解放された。
「あなたが先に死んでも私は生きてゆくし、私が先に死んでもあなたは生きてゆくと思うよ」
私は答えた。私たちはそのまま、向かい合ったまま床に座り込んで、どうしようもなくなって、仕方なく目を見合わせて大袈裟に肩をすくませた。彼はそして、はたと何かに気が付いて口を開いた。
「昨日の夜の薬、飲んだ?」
私は首を横に振る。
私たちは何事も無かったみたいに、それぞれの薬が入った袋をローテーブルの上に広げた。シートからぷちっと錠剤を出していく。抗鬱薬、抗不安薬、向精神薬。彼のは非定型抗精神病薬、気分安定薬。ひとまとめに口に放り込んで、飲み込んだ。全てが無意味な生活を、意味あるものだと信じ込まなければならなかった。私たちはどうしようもなく二つの個体で、ひとつにはなれない。互いの無意味さを転じることの出来る力はない。さすれば、互いの無意味な生活を照らし合って生きてゆくしかなかった。月は光を照り返す。太陽は、光る月を眺めている。
2022年 冬