こだわりという名の闇
何度立ち止まっただろう....…
必死に探し、悩み、もがき、あがき。
なのに見つからない。
考えれば考えるほど、わからない。
そうしてるうちに、
いつの間にか頭がどんどん
固くなっていくのがわかる。
一つでも多く新しい情報を。経験を。
なにかを見つけるために。早く。早く。。。
新しいものを取りにいく。
コレじゃない。こうしなきゃいけない。。。
日に日に、こだわりが強くなり
コレじゃなきゃダメなんだ。
もうここまで来たら意地になっていることにも
気づいていた。
色んなものを見聞きし、たくさんの知識を得ることが正解だと。。。。
色んなモノをたくさん見れば、なにか見つかると思っていた。
まだだ。まだ。。。
どこかにあるはずなんだ。“それが”
そして気づいた。
たくさんの物を見ることがいいとは限らないことに。
選択肢があればあるほど、全てが輝いて見える。
10品目の中から一つ選ぶのと、3品目から選ぶ。
わずかな選択肢の中から選ぶことは、比較的選びやすいが、
多くの中から選ぶといことは非常に時間がかかり、立ち止まってしまうのだ。
見れば見るほどわからなくなる。
“自分”という沼にハマってしまったんだ。
一つに決めないと
そしてどれが自分に合ってる?
身の丈にあった判断をしようとしている自分がそこには居て、頭を抱えている。
これこそが ″こだわり″ の実態なのだ。
コレじゃなきゃダメだ。
こうしなきゃいけない。
ここだけにしか行ってはいけない。
という決めつけ。
そのこだわりこそが全ての根源であることに。
こだわりを持つことが1番大事だと思っていた。
自分の意思、考えを持つことが1番大事で、それが自分の軸を持つということなんだと思っていた。
こだわりとは紙一重。
活かすことができれば才能となるが
できなければ、立ち止まり中々前に進めなくなるという闇が潜んでいる。
こだわりを持つことは、大切なことで、それが軸となることは、たしかである。
ただそのこだわりというものが、ときに世界をせばめているという元凶になるということだ。
こだわりとは、妥協なく徹底して探求すること。
そして ″是非″ を判断するということでもある。
″是非″ とは いいか悪いかを判断する。
一つの物事に対して、いい。悪い。好き。嫌い。
自分という存在が創り出す、小さくて狭い基準の判断にすぎない。
どっちか選ぶ。選択する。決める。
という考え方こそが、
たどれば、小さい頃からのすり込みなのだと。
小学校のリレーで1等賞を取れば褒められる。
1等賞、2等賞、3等賞と順位をつけられ評価される。
完全な競争社会なんだと無意識に認識してしまっていたんだ。
生まれてからの癖、習慣が染み込んで、取れない。
全部取ることはできない。。。
でもこの真実に気づいてしまったら、変える必要があるのだ。