ワンクッションが如何に大事か
クッションはふかふか。あらゆる衝撃を緩和させる。枕にできる。背もたれと腰の間に配置したら腰への負担を軽減させる。ぎゅっと抱き抱えると落ち着く。うつ伏せでゲームする時に、胸あたりに忍ばせておくと姿勢が安定する。足上げ腹筋をする時に足に挟むと効果大。もっともっと日常で多く活躍するクッション。
しかし、これから話すのは「ワンクッション」の話。
最近「ワンクッション」の大切さを痛感している。それは立場の高低差を緩衝するワンクッションである。私は質問をするのが苦手だ。それも端的に簡潔に伝えるのが苦手だ。自分の得意分野ならまだしも、理解不能なことを「全く理解できず手も足も出ません」以外の言葉で伝えるのが苦手だ。なにより、そんな低レベルの質問を上の立場の人にすることは失礼とされている。そんな低レベルの質問をなんとか見かけだけでも良くするための解消口として、私には「ワンクッション」が必要なのだ。しかし、私はつい最近その「ワンクッション」を失った。
わからないことがあれば人に聞いたほうが良い。どこまでも円い側面に沿って思考し続ける頭は、同じ場所をぐるぐる回っていることすら気づかせない。螺旋にはなっているはずと錯覚すらする。恥ずかしながら私は、今まで「質問する」という経験をあまりしてこなかった。(正しくは物理的に不可能だった)
えらい人は忙しい。限られた時間の中で如何に相手の時間を必要以上に要することなく、自分の意志を伝え欲しい答えをもらうか。いつだって最短距離を意識する必要がある。誰に対してもそうかもしれないが、「ワンクッション」はそんな切り詰めた緊張の糸を少し解きほぐして、低レベルの質問に息を吹きかけてくれる。人に質問する前に、人と話をすることがかなり重要なのだ。
だが、それを失った今、「ワンクッション」というフィルターを通らずダイレクトにえらい人に伝えなくてはならない状況。ワンクッションを挟んだ状態なら、伝えたいことの8割くらいは伝えられるが、挟まないと質問に行くまでの時間は倍以上、伝えたいことの6割は伝えられてないことを実感する。もやもやを解消するために質問に行ったはずが、もやもやを残したまま、なんなら上手く伝えられなかったという負の感情をまとって帰ってる。
立場間にある「ワンクッション」の重要性は重要視するべき。それが無いせいで、私の生産性は下がってしまった。品質が下がってしまった。点と点が一向に線にならない。だけど、逆に手に入れたものがある。それは主体性だと思っている。あの人に聞けばなんとかなるという状況から離脱したことで、私は私が聞いたことをもとに、私自身が考え出さないといけない。考えるために不足している情報を自分で取りに行かないといけない。そんな主体性は良いように聞こえるかもしれないが、効率が悪い。私にはそのやり方が合っていないことを確信している。失ってしまった「ワンクッション」の損失はあまりにも大きすぎる。