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つまんない一杯

ラーメンが好きだ。その中でも、あまり美味しくないラーメン屋にわざわざ行くという奇行が僕にはあってだな。
この気持ちを分かってもらえそうにないので説明したい。

美味しいラーメンがある。マツヨシ大飯店さんのような「あぁ、この一杯の為に働いたんだ」と思わせてくれる徳の高いラーメン。僕には後光が差して見える。
それと相反して、“特筆するものは何もないけれど、割と遅い時間まで開けてくれているラーメン屋“が出してくれる「つまらない一杯」。これがまた格別で尊い。てぇてぇ。

学生の頃、とんでもなくイジメを受けていた。思えばその頃から不眠症だった。深夜になると個人タクシーの父が帰ってくるエンジン音がする。カランカランと側溝の蓋が弾んで2回鳴ると犬猫のように走って玄関で父を迎えた。実際に飼っていた猫もよくそれについて来た。

「何や、起きとったんか」の青保留で始める。手元を覗いて近所のスーパーの袋が見えればハズレ。安上がりの晩酌を済ませてとっとと寝たいのだ。手ぶら且つ「腹減ったんか」のセリフ後、家でそば⭐︎とラーメン⭐︎⭐︎⭐︎ステージに振り分けられる。

「なにわでええか」と父が言う。言ったからって記念日にはならない。早く寝たかったろうに目の下にクマを作った中学生の息子を無視できなかった。

実家から歩いて17秒のところに朝5時まで営業しているラーメン屋があった。煤けた黄色いテントはぼんやりと光って、ダクトから張りのないとんこつ臭を漂わせている。
なにわラーメンは夏に入ると凍えるほど冷房が効いている。アンペグの810サイズの縦置きクーラーからは白い冷風が可視化されビュービューと噴き出ている。

「瓶ビールと、わかめちょうだい」とだけ父は大将に伝える。返事なんてない。静かにアサヒの中瓶に小さなグラスを被せてことりと置く。その間に僕は食べ放題のキムチを小皿に乗せてカウンターまで手際よく運ぶ。
一息でグラスを空にしながらスポーツ新聞を開いて、「昨日のか」と元あった位置に戻す行為を父はいつも繰り返していた。
「飲むか」と言って二杯目を注ぐ。
読者を勘違いさせてはいけないので詳細に書くが、この当時我が家は外国に住んでおり、法整備もままならない小国で未成年の飲酒に関しては決まりがない時代背景だったこともあり僕は真似て一息でそれを飲んだ。父は笑いながら「馬鹿か」と言い大きな手で僕の頭を叩いた。めちゃくちゃ痛い。

しばらくして父の元にわかめラーメン、僕の前にはラーメンが置かれた。父はわかめそばにトッピングわかめを注文するような人だ。
味を知っているからテーブル胡椒をこれでもかとかけてすする。
僕はいつもやる気のないとんこつしょうゆラーメンの麺を硬めにすることを伝え忘れた。麺はだるんだるんで、細く切られた人参は色味だけで味に参加もしてこない。

「どうや、学校は」
「ん」
「おもろないんか」
「ん」
「どついたれや、何ちゅうた。あの生意気そうな」
「ん」
「…何してたん、こんな時間まで」
「映画観てた」
「そうか」

父は作品名も聞かずラーメンをすぐ空にした。
ごっそーさんとだけ告げて、まだ大将に聞こえそうな距離で「美味ぁないな」と言って爪楊枝をその辺に放り投げる。
何の解決もしないこの時間が好きだった。
こういった原風景から僕は美味しくないラーメンが今日まで好きでいる。


昨晩、急に連絡があった。福岡に帰ったので明太子を渡したいと言う後輩は、駅で買った一番安くて小さいそれを渡す口実でわざわざ僕の住む街まで電車に乗ってやって来た。
何か喋りたくて仕方ない様子なので「隠居の身で何も言えることはありません」とだけ釘を刺した。

近所に味のあるホルモン屋がある。味とは店の佇まいのことで、ただ安いということ以外は大将が常連客にだけ甘く対応するのがイライラする店だ。
今の僕にはありがたいことに二人で食べて飲んで4000円。後輩は店の雰囲気と僕の喋り、加えて酒に弱いのでたった一杯で熱にあてられて上機嫌だった。

前向きな言葉だけ伝えて、優しいそいつは気軽に戻って来てほしいだなんてことは言わずに帰っていった。

美味しいラーメン屋があれば肩を並べてみたかったが、あいにく無いのが僕の街だ。
見送った後に一人そそくさと店に入る。

以前は大きな券売機が置いてあったこの美味しくないラーメン屋は、撤去して新たにテーブル席を設けていた。混んでいるところは一度として見たことがない。

カタコトのいらっしゃいませが聞こえて、トルコ人の女の子が席へ案内してくれた。客は僕の他にもう一人、いかにも飲んだ帰りという風体のオッサンが不味そうにすすっている。

「お決まりになったらお呼びください」はところどころ歯抜けで並んでいたが聞き取れた。
看板メニューの美味しくないラーメンを硬めで頼んで待っている間、隣のオッサンは小首を傾げながら店を後にした。

厨房では若い日本人の男の子が、これまた若いトルコ人の男の子に向かって怒号を飛ばしている。
「やからぁ、前にも言うたけどぉ」といった調子だ。
ひょんなことからトルコのケバブ屋で働いてみろと思っていたらラーメンが届く。
「お熱いので」の後に言葉を詰まらせたので、ゆっくり食べますねと伝えた。

こちらは白濁したとんこつしょうゆスープに薄切りチャーシューとネギが乗っている。中太ちぢれ麺はこのつまらないスープとよく絡んでただ胃を満たしてくれる。

食べ進めていると一組のカップルがやって来た。
彼女さんはプリンになった金髪で、ふてぶてしく二人とだけ言って案内される前にテーブル席に座った。
男は意味のないスキニーパンツに、何時に塗布したか分からないジェルは深夜なのにパリパリしている。南大阪からオデッセイに乗ってわざわざ来たんだろうか。

しばらくメニュー表を睨んで二人は注文をした。
味に期待している様子なので、見事裏切られるまでは見届けたいと思った。
二杯をそれぞれ伝えたあと、男は「ピッチャー」と言う。
トルコ人の女の子は「ピッチャー?」と聞き返すも繰り返し「ピッチャー!」と強く重ねるだけの二人。

ちなみにこれは水を入れた容器を指すピッチャーだが、店員の彼女にはまだハードルが高い和製英語だ。
水と言えばすんなり届いただろうに頑なにピッチャーと連呼する。ここまで来ればただ男が草野球での自分のポジションを誇示している可能性まである。

見かねて別のテーブルから水の入った容器を彼らのところへ運んだ。僕の図体は小柄なお二人さんには威圧感があったようで引いていた。
店員の女の子は感謝こそすれどピッチャーの謎がまだ解けていない様子だった。

この一幕に集中してすっかり冷めた僕のラーメンは輪をかけて美味しくなかった。
完飲をして店主を勘違いさせてはいけないのでスープはしっかりと残す。これは僕のポリシーだ。一声かけてレジへと向かう。

トルコ人の女の子は「先程は…」と小さな声で言う。先程なんてあの野球チームの二人は生涯使わないだろう。
僕は出身を聞いて、そこでトルコから来たことを知った。公用語が分からないので英語は読めますか?と聞くと分かります、と。

僕は翻訳サイトで書いた文を彼女に見せた。
「あなたの接客は素晴らしい。日本は彼らのように怒る人ばかりではありません。美味しい一杯をありがとう」と少しの嘘を添えて。

彼女の曇った顔が笑顔になった。気を良くした僕は「ピッチャーとあれだけ連呼した彼は野球選手かもしれません」と続けた。

それを見た彼女から笑顔は一瞬で消え去った。

この歳になっても学ぶことは多い。
「何でもありません、忘れてください」は英語で
「It's nothing, forget it.」ということを知った。
生きた英語だ。



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