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ガキがグミ吐いた。

ガキが電車の中でグミを吐いた。サイダーのケミカルな匂いが広がって気分は最悪。

体調不良とかだったら何も思わなかった。
「美味しくない!」と奇声を上げ、吐き捨てた水色の塊をどこかに蹴飛ばした。携帯ばかり触っている母親に構って欲しくて犯行に及んだ様子で、重ねて痰まで吐いて見せたがそれでも彼女は一向に気付かない。

僕はドア近くの補助席に座っていた。通路を挟んで向かいの補助席に座る爺さんもその一幕を見ていて目が合った。
お互いが注意するでもなく、母親へそれに気付けと視線を送った。その我々の後方、向かい合う4人掛けシートで子に背を向けて座る母親は目線を落としたまま、ただ「静かに」と言った。

状況が変わらないことを理解したガキは不貞腐れて床に垂れたツバを足で拭おうとしたがただ伸びただけで、酷くなったそれを横目に爺さんは次の駅でひょいと飛び越えて降りた。
隙を見計らって爺さんの席に母親が移動して、空席だったところに靴も脱がずにガキが登ってまた騒いだ。

筆者はお察しの通り未婚であり、子供はいない。
だからって何も無垢な彼らをひとまとめにして生きているわけではない。
“可愛い子供”は「お子」と呼び、“分別がつくであろうに構ってほしさで安直に悪いことへ走るクソガキ“は「ガキ」とさせていただいている。
お子にはお腹いっぱいになるまでご馳走したいし、ガキの皿の上にある最後の楽しみに残したプチトマトは取り上げて食べたい。それがパイナップルなら気が引けるだろう。そういう小さい人間がこれを書いている。

なにも吐いた際の唾がサンダルから剥き出しの僕の足に触れたから腹が立ったとかそういう類いの話ではない。本当に。それを文章にしようだなんてあまりに大人気ないじゃないか。子供のしたことだ。きったねーなコラ。

また次の駅では外国人のご夫婦が乗り合わせ、座席に空きが無いことを確認して静かに立っていた。
暇を持て余したガキはこちらを一瞥し、大凡構ってくれる風体の大人で無いことだけを瞬時に察知して目を背けた。

「ハロー」なんて浮ついた挨拶に、二人はえらく喜んだ。これぐらいの歳の孫がいるのだろう。カタコトの日本語で賑やかに応えるもんだから良くなかった。付け上がったのだ。

あろうことか、両手を差し出し自分の席を譲るジェスチャーを披露した。
あの凶行から10分も経っていない。
丁重に断るも引かないガキに折れて座ったご婦人は何度も「アリガトウ」を繰り返し、さすがの母親もそれを見て息子の頭を撫でた。
その顔は平気そうに見せて小鼻が膨れ上がるアレだ。隠せていないアレ。

スピードが緩やかになって母親は立ち上がる。そうして電車はピタリと止まり、親子が下車しようとするその刹那だった。
最後の「アリガトウ」に背中で返事をしながら、ガキは床のツバを思いっきり左足の裏で拭いたのだ。
一連を知らなければ少し躓いたようにしか映らない。
この車両に於いて“良い子”でエンディングを迎える為に隠匿するその所作を、僕は見逃さなかった。

ホームで乗り換える次の電車を待ちながら、母親は偉いねなどと言葉をかける。

僕は気付いていた。
褒められているのにバツが悪そうなことを。
僕の視線に気付いているガキが、一生懸命こちらを見ないようにしていることを。
嘘を突き通せば真実に、見つからなければ罪にはならないことを感覚で知っているんだね。
あと少し、この不安が確信に変わる前にドアが閉じてほしい。そんな顔だったね。

だが、ついに事切れたガキは恐る恐るこちらを向いてくれた。

僕は、とびっきりの無表情を送った。

そこには怒りにも、呆れにも見える憂いを含ませた。その顔を見た彼が想像しうるどのネガティブな答えともリンクするように設計された無表情だ。

家に帰って母が嬉しそうに父へと報告するだろう。幼い我が子の誉高い行いを。
そうして父にまた頭を撫でられた時にふと、僕の顔を思い出してほしい。

全てが嘘で、それを知っている者が存在し、もう贖罪の機を失ったことを。

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