【メモ】レンブラントと馬の脚_1015布施アカデミア
このメモは、布施英利氏のオンライン講義「布施アカデミア」の個人的な咀嚼とコーポリアルマイムとの共通点を整理するために記す。
1015の布施アカデミアはデイビット・ホックニー/マーティンゲイホード著「絵画の歴史(Pictures of History)」の読み解き。「洞窟壁画からipadまで」というサブタイトルの通り、絵画の歴史を紐解きながら、写真の登場、現代アートに至るまでのPicturesが何を表現してきたのかについて網羅的な紹介がなされた。
メモ①:レンブラントのデッサン。
絵画の構成要素の一つとして「線」が紹介された。レンブラントがペン(羽ペン?)で描いた母・姉・妹・父、町娘?のデッサン。一見すると何気ない素朴な描写。しかしホックニーが評する、線が持つ表現力の豊かさが印象的だった。かがみこんだ肩の丸みから感じる母親の心配気な愛情。ピンと伸びた腕の線から感じる牛乳瓶の重さ。サラリと描かれた線に含まれる繊細な表現。
コーポリアルマイムでも造形としての線を意識する。丸みのあるカーブを作るときは、肘やかかとが「空間を傷つけないように」とよく言われる。全身で傾きを表現するときはつま先から頭のてっぺんまで一直線のラインを描くように意識して、全身に意識を張り巡らせる。
レンブラントのデッサンを見ながら、コーポリアルマイムで行っていることは、空間に身体で線を描いているようだと思えた。身体的なデザインの線も、絵画の線と同様に、繊細でもろく、それと同時に底知れぬ表現力を含んでいる。
帰りがけにその話をクラスメイトにした。彼も「わかる」と共感しながら「せやけど、始めたての頃はそれが苦手やった。これまでの芝居は内面から創り上げるから、『この背中の曲がり方は●●を表現している』みたいな側の話でええんかって。でも、今はそう見えるってことも大事な気がしてる」と話していた。
非常に共感した。自身の身体で、幾何学的にデザインを創る訓練には長い時間がかかる。しかし、意識が身体のカタチだけに留まれば、内面は死に、「それはムーブメント(動き)だよ」とよく言われる。まるで鋳型に鉄を流し込むように、デザインを極限まで意識しながら内面を充実させることで初めて演技が生まれる。外と内。両側面から線を描くこと。
メモ②:馬の脚
写真が発明された1839年以前、以後についても紹介された。カメラオブスキュラから、瞬間を切り取る写真というメディアで動きを表現しようとした試みなどなど…。なかでも印象的だったのが、エドウィアード・マイブリッジの連続写真。疾走する馬の脚の形を始めてカメラで捉えた作品だ。しかし、マイブリッジが収めた写真の中には、ジェリコーが描く疾走する馬の脚の形は存在しなかった。「絵画にとってのリアリズムとは何か?」「絵画が持つ表現の”強さ”とは何か?」
演劇においても何を表現をするのかは個人的にも関心がある。新劇もあれば、日常のように話す現代劇、歌やダンスを取り入れた大衆演劇まで多種多様だ。場合によっては、写実的に日常を舞台に上げる演劇もあるだろう。
一方で、コーポリアルマイムにおいては、日常生活はそのまま舞台に持ち込まない。行為の拡大化、純粋化がなされる。コップを持ち上げて飲むだけでも26個の動きに分割され、大きく動き、余計なノイズを無くしていく。あまりにも日常とかけ離れているので、私自身もレッスンをしながらでも「何でこんな動きをするのだろうか?」と疑問に思ったこともあった。しかし行為を拡大化、純粋化することで、その行為が持つ本質的な何かが抽出されているような気もしている。それは日常の連続写真では捉えきれない行為の”リアル”を抽出するような試みのようにも思えた。