憧れの楽器②
さて、ヴァイオリンだ。
つーさんのところへ行ったおととい、いったん家に帰って夕飯のシンガポールライスを仕込んでから、電車にひと駅乗って体験レッスンに向かったのだった。
「どんなに体験レッスンが良かったとしても即決で入会するのはやめよう。一度持ち帰ってから考える、絶対にだ」
と、よくよく自分に言い聞かせ、心に「即決禁止」と書かれたハチマキ(と、ふんどし)をギュッと締めて音楽教室に到着。
ほがらかなスタッフのお姉さんにレッスン室へ案内される。
いくつかならんだ小さなレッスン室の前には、ギターを持った若い男の子や、フルートを持った女の子などが静かに座っていた。
わりと遅い時間だったけど、みんなそれぞれ昼間の活動を終えてから楽器を練習しに来ているんだなーと思う。それぞれの、特別な時間だろう。
さて、中から現れた担当の先生は、ディズニーランドのジャングルクルーズの船長(キャプテン)をしていそうな雰囲気で(伝わるだろうか……)、すこしアバンギャルドなシャツを着こなすお兄さんだった。いや、マスクをしているからそう思っただけで、意外とお兄さんではないのかもしれない。
てっきり、いわゆるピアノの先生みたいなノーブルandクラシカルな女性が出てくるのかと思っていたので、カジュアルな雰囲気であることにだいぶ安心する。
キャプテン、にこにこと楽器をケースから出しながら、
「近くでヴァイオリンを見たことはありますか?」
いえ、ありません。遠くから見るばっかりで…。
「これがヴァイオリンです。」
ヴァイオリン登場。手渡された。
思ってたより軽い。
いま、自分がヴァイオリンを持っているということに「うわ~」と胸が高なる。
「では構えてみましょう。まず、頭を右肩のほうにグッとかたむけて~」
(うわ~!)
「ヴァイオリンを顎と肩ではさんで」
(うわわわ~!)
「ネックを左手で持ち」
(うわうわうわ~!)
「弓を右手で構える…ハイ。これで完成です。とてもいい構えができています!」
憧れの楽器をアゴにはさめた喜び。
もうこの時点で、ダメかもと思った。
即決禁止のハチマキがずるりと外れかかってる。
「では、音を出してみましょう。弓を持って、A線に弓を置いて、はい、まっすぐに引いてみてください」
ラーーーーーーーーー…
音が出た!
いつもはコンサートホールなどで正面から発されている音を受けている(聴いている)立場なのに、今は自分の方から音を発している。すごいな。
「いい音出てます!」
とキャプテン。
初めて手にとる楽器だったけど、自分でも意外なほどに音が出た。
弓をスーっと引くと、楽器から伝わる振動や手応えとともに音が生まれる。
鳴るというより、生まれるという感じがする。
弦と弓がギギッと擦れることによって音が生まれている。
ものすごく弓に伝わる手応えがあるのだ。
そのググッとした手応えが、楽器を挟んでいるアゴや肩に伝わるのもなんともいえず爽快で、これは弾きこなせるようになったらとても気持ちがよいだろうなと思う。
私にはいちおう音楽経験があり、楽譜も読めるので、本来の体験レッスンのメニューはすぐにクリアしてしまった様だった。
すると、キャプテンがなんと「せっかく来てくださったので、お好きな曲を一曲弾こうかと思うのですが」と。
ええっ!?
「なんでもいいので好きな曲をリクエストしてください」
なんでもですか!?
「聴いたことがある曲ならなんでも弾けると思います」
え~、すごぉ~…。
でも、いざそう言われると、好きな曲なんてたくさんありすぎてどれを選んだらいいのか分からない。
しばし考えていて、ふと頭に浮かんだ「愛の挨拶」をリクエストしてみた。
1メートルほどの至近距離で、もちろん楽譜も見ずに豊かな表現で「愛の挨拶」を演奏してくださる。
すごすぎて言葉にならない。
楽器が歌を歌っているみたい。
ただの連なる音ではなくて、なにか美しい気持ちのようなものが空気をふるわせて伝わってくる。
弾き終えたキャプテンに拍手、気持ち的にはもう船上でスタンディングオベーション。
(ヴァイオリンの練習は立ったまま行うので、まさにスタンディングオベーションであった)
するとキャプテン、にっこり笑顔で、
「まだ時間がありますので、よかったら「愛の挨拶」弾いてみませんか?」
と言う。
そんなことできるはずないじゃないですか!!!とひっくり返りそうになったが、キャプテンがその場で簡単な楽譜をササッと書いてくれて、ゆっくりのテンポで、最初の何フレーズがだけ弾くことができたのである。
まさか弾けるとは…。
嬉しい。そして楽しい。もっとちゃんと練習してみたい。
今日だけで終わりなんてとんでもない話だわ。
というわけで、「即決禁止」のハチマキとふんどしは、もろくも放り去られてしまったのである。
即決入会で、来週からレッスンがはじまることになった。
新しいものに触れる喜び。
それって幾つになってもあるんだな。
ずっと続けてきたことを継続することももちろん大事だけど、新しいことを始めることも素晴らしい。
これまでがあっての今だからこそ、こんなに透明な気持ちで音が出せる喜びを感じることができているのかもしれない、とも思った。