憧れの楽器⑩ ~のびしろしかないとも言える
8月某日
軽井沢から帰ってきて、いったん自宅に戻って荷をほどき、楽器をつかんで家を飛び出しドタバタとレッスンへ向かう。
ここ一週間、いろいろあってまったくヴァイオリンの練習ができていなかった。
楽器ケースを一度も開けてすらいない。
いろいろあったというのは、仕事とか、旅行の支度とか、そんなようなことで、どうしても練習しなくちゃという意欲があれば時間は作れたと思う。つまりその時間をつくらなかった。
本当は旅行から帰ってきた日にレッスンへ行くのは体力的に不安もあったのだが、「旅行帰りだから」という理由だけでレッスンを休みたくなくて、なかば意地で向かったのだった。
だが、練習もせず楽器にもさわらずに挑んだレッスンは、それはそれはそれは、酷いものだった。
音は割れる、かすれる、ギィィ~、移弦はうまくいかない、弓が弦にバウンドする。
前回はできていたことすらできていない。
楽器が体になじんでいない。
キャプテンも、おそらく内心うわぁと思われていたと思うのだが、上品かつとてもお優しいので、
「うん。うんうん。最後の音、良かったですよ」
と、良かったところに注目してにっこり微笑んでくださるのだった。
その微笑みが、逆に、つらい。
怒ってくれた方がましなのかもしれない。
だってできてないって分かってる。
酷い音を出していることも自分が一番よく分かってる。
「酷い音を出してすみません」と言葉にして謝りたい気持ちでいっぱいになったのだが、レッスンの場でそんな言い訳をすることには意味がないんだ、と思う。
できてないんだから、それがすべてだよ。
言い訳しないで自分で引き受けないとだめだろう。
いま自分が踏みしめている足元に穴を掘って、そのまま埋まってしまいたいような気持ちでレッスンを終えた。
帰り道、駅まで歩きながら、じわりと涙が出る。
これはなんの涙だろう?
悔しいとか恥ずかしいとかじゃなくて、なにかに申し訳ないような、なにかを裏切ってしまったような気持ちになっていた。
わたしにとってヴァイオリンのレッスンは、お遊びとかほんのりした趣味っていうんじゃなく、もっと、まじめで切実ななにかに結びついているのかもしれない。
そうだとしたら、もっと大切にしなければ。
練習しよう。練習だ。
そう思った。
8月某日(その翌週)
先週のさんざんなレッスンのあと、2回、時間を作ってまねきねこ練をした。
不思議なもので、ヴァイオリンというのは弾けば弾くほど、するすると弾けるようになっていく。身体に楽器がなじんでくれる。
わたしがこれまで経験したどの楽器よりも、そう感じる。
個人練ではとにかく基本を繰り返すこと、弦に当たる弓の角度、位置、真ん中を弾ききること、を意識している。
あと、肘の位置が変わらないようにして弾くこと。カラオケボックスの壁に体の片側をはりつけて、肘を固定して弾く。
今日のレッスンは仕事のあと直行するため、わたしは職場に初めてヴァイオリンを持って行った。
すると、年配の同僚男性が楽器ケースを見て「わぁ、弦楽器ですか?いいですねぇ」と目を輝かせて話しかけてくださった。
この前チェロのコンサートに行ってきたという話や、秋にヴァイオリンのリサイタルのチケットをとっていることなど、いろいろと話をしてくださって、へぇー今までそんな話は聞いたことがなかったなと驚いた。
弦楽器がお好きだったんだ。
それにしてもいつの間に習い始めたんですか?と尋ねられたので、5月に習い始めたこと、ゼロからのスタートなのでできないことばっかりで、弾けてなくてすみませんという気持ちにもなります、などなどお伝えすると、
「とても良い趣味です」
としみじみ頷かれる。
「だって、のびしろばっかりですもんね」
とおっしゃる。
そんな風に捉えられるのか。
のびしろばっかり。
思わぬ方向からほのかな光に照らされたみたいに、その言葉がなんだかとても胸に残った。
夜になり、職場をあとにして、てくてく歩いてレッスンへ。
おぼろな月が美しく浮かんでいる。
仕事帰りでとても疲れていたけど、今日のレッスンは、なんだか自分としてはとてもよく弾けた。
よく弾けたというか、練習したとおりに弾くことができた。まだまだ音もズレるしスムーズじゃないところもあるけど、いまの自分なりの音を出せたと思えた。
キャプテンは素敵な音符柄のTシャツをお召しになり、「先週のようなバウンドした音とか、かすれた音がなくて綺麗に弾けていますね」とにっこり言ってくださる。
ですよね、先週酷かったですよね。
ですからわたし練習しました。
でも本当は、そんなの当たり前なんですよね。
先週よりもずっとスムーズにレッスンはすすみ、いよいよG線に突入。
もっとも低い音の弦だ。
弓を持つ肘を高くあげて、思ったよりもずっと高くあげて、力強く弾く。
弾くことはたのしい。
たのしい!と思う。
だからちゃんと大切にする。
帰り際、楽器をしまっていると「雨は降っていませんでしたか?」とキャプテン。
雨は降っていないけど、風がちょっと強かったです。あと、月がとても綺麗でした。
「そうですね。これから月が綺麗な季節ですもんね」
本当だ、もうすぐ秋。
帰り道、先週みたいに涙は出なかった。
綺麗な月を見ながら歩いて帰る。
「だって、のびしろばっかりですもんね」
そうつぶやく。