げきべこみと桜ドーナツ
凹んでいる。
「凹んでいる」という言葉はとてもわかりやすくていい。だって、へこんでるんだよね。心がべこっとへこんでる。それをすごくよく言い表してる。
で、凹んでるんです。
激凹み(げきべこみ)です。
① 本業の仕事がひますぎて、なんもすることなくて、自らの存在意義を失う思いにとらわれる
② 頼まれて入ったサブの仕事も(夫の病院の手伝い)、別にわたし居なくてもよくない?という存在の意味のなさに生きる意味を失いかける
人間(いい年した大人)は、なにかしら動いてないと、働いてないと、役立ち感がないと凹んでゆくのだろうか。わたし居なくてもよくない?と思うことは、わたしにとってはなにかトラウマでもあるのかと思うほど苦手な感情だ。
毎日生きて、寝て起きて、お風呂入って、歯磨いて、掃除して、ごはん作ってるけど、それだけじゃなにかが凹んでゆくのかもしれんなあ。働き、役立ちかぁ。え、じゃあ老後どうするわけ?
で、いま、激べこみながらミスドで桜のドーナツを食べているんです。
おいしゅうございます。
この前、激べこんだときはスタバで桜のケーキを食べました。
これもおいしゅうございました。
凹んだときはなにか甘いものを欲するんでしょうね。皆さんもそうですか?
・・・
突然だが、わたしは10代、20代の頃にたいそう怠けて生きていて、一日中「どうぶつの森」をやっていても平気だったし、外出しなくたってへっちゃらだった。
できるだけゴロゴロしていたかったし、学校も行きたくなかったし、大学の授業も随分サボったし、休みの日は思い切り引きこもってだらけていた。
が、30代になってからにわかに怠けていられなくなった。30歳で娘が生まれたのだ。
(ちなみに結婚したのは25歳である。つまり、結婚してからも5年ほどは普通に怠けていた。家事や仕事はしてたけど)
自分ひとりの身でなくなる、というのは、これはもう一大事です。怠けたくても状況が許してくれぬ。なにしろ大声で泣かれるわけであり、怠けていては人ひとりの命の危機が訪れるのである。その連続で毎日が続いていく。自分の意志で日々を送ることが難しくなる。
で、そこでわたしはなにか人生のスイッチが入ってしまった、というか、スイッチを入れないとその「育児」という荒波を越えられなかったのだと思う。
カチッ。「とにかく動きます」のスイッチが入りました。
それからというもの、30代、40代と外出しなかった日はない(コロナやインフルエンザの時以外)というくらい外に出ているし、仕事もしているし、専門学校に入って勉強したり、国試を受けたり、ダブルワークをしようと試みたり(これは失敗中断中)、そしてまた、新しく資格を取るべくこの春から通信制の専門学校に入学するのである。
20代までの20年間が長~いチャージ期間で、おばさんになったいま、ようやくエンジンがかかってウィリー気味に突っ走っているんだと自分では解釈している。
人生のバランスが後ろ寄り。どうにかならなかった?
ちなみに、「育児」は、いまでも向いてないと思う。向いてないと断言できる。
持ち前の「やるべきことはやるべきだ、やらないなんていかんことだ」的性格のおかげで放棄はせずに娘を育てたし幼稚園のママ友付き合いも、小学校のあれやこれやも、中学受験も白目を剥きながら乗り越えたけど、いまだに「わたしは育児は向いてない」って思う。だから子どもは1人しか産まなかったし、それで正解だったと思っている。(娘のことは大好きです)
母親という肩書きはいまだにしっくりこない。妻でもない。わたしはわたしじゃ、と思う。
わたしにとって娘は庇護する対象ではなく、なんていうか、ドラクエの仲間みたいな感じだ。
人生の仲間という感じ。夫もそう。
人生の道中で仲間が増えたけど、わたしはわたしだ(でしかない)という感じがする。
・・・
で、なにを言ってたかというと、激凹みの話です。暇でげきべこみなんでしたね。
桜のドーナツ食べながらこれを書いてたら、なんかちょっとふんわりした気持ちになってきた。ま、いいかー。そのうちなんとかなるだろう。4月から学生になるし、否応なしに忙しくなるでしょ。
憂鬱なことがあるときは、私はもう、一瞬一瞬をただ生きようと思う。ただその時を生きる。
で、「つらくなったらすぐ撤退」。
これです。
これからサブの仕事に移動します。
今日は暇じゃないといいなー。
激凹みませんように。