映画「keiko」の思い出
今、朝日新聞の連載記事「語る 人生の贈りもの」で演劇プロデューサー北村明子さんの半生が語られている。
6月18日の回で昔の映画「keiko」に出演されていたことを知り、少し驚いた。
映画での北村さんの役はなかなかに衝撃的なものだったから。
あの時代に、生まれたばかりの子供を親に預けてこの役を引き受けた人、は、一介の女優では収まり切らない才能の持ち主だったんだなと、この連載を読んでいて思う。
「keiko」という映画は、当時まだ子どもだった私に現実の生々しさを教えてくれた映画として、強烈に心に残っている。
公開時の1979年、私は18か19で(誕生日がちょうど1年の真ん中辺り)、まだ学生だった。
何を勘違いしたものか、母が誘ってきて2人で観に行ったのだった。
始まってみれば、物語というよりはドキュメンタリーのような生々しさで、母は隣で何とも言えない溜め息をついていた。
男と手を繋ぐのも「気持ち悪い」とか「いやらしい」とか言ってた昭和ヒトケタ生まれの母だったから、心の底から「失敗した・・・・」と後悔していたことだろうと思う。
見た後に食事などしただろうけれど、映画について語り合った記憶はない。
しかし、ゴリゴリの少女マンガ脳で、ほのかな恋愛の経験はあってもまだ乙女だった私の脳裏には鮮烈に残った。
親から離れて一人で生きる(今思えば「暮らす」レベルなんだけど)事の自由と不安、解放感とどこまで行ってもなくならない女であるがゆえの閉塞感、という相反するものがごちゃ混ぜになっているkeikoの日常が何もかも新鮮に映り、同時に「矛盾」という言葉の意味を実感したとでもいうか。
大人になるってこういう世界に出ていくことなのか・・・という「目から鱗」的な衝撃。
keikoの日常を淡々と綴る映画に、「自分には関係ない」と思えないリアルさがあったのだと思う。
そして、そういうカオスな日常の後にたどり着く「結婚」。
お相手の「正体」を観客は知っているのだが映画の中の人たちは誰も知らない。
楚々としたウエディングドレス姿のkeikoからは、安心と不安、喜びと諦め、という裏表が、やはり浮かび上がっているように感じたし、
結婚は幸せなゴールなんかじゃなくて、人生の次のステージなんだな、なにがあるかどうなるかわからない人生は続いて行くんだな、ということを思った、と言う以上に悟ったように覚えている。
結婚し、娘と息子を産み育て、夫との関係もようやく凪いできた今の私がこの映画を観たら、多分まったく違って見える、見えてしまう、だろうと思う。
だから、観ようと思えば観ることのできる今だけど、観ないでおこうと思う。
若かった私が受けた、若さゆえの衝撃は、忘れたくないと思うのだ。