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私の「怖いもの好き」のルーツ

私は「怖い話」が好きだ。
物心ついたころから「怖い話」にトキメキを感じていた。
自分の中のそのルーツを探ってみると、大きく三つの事が思い当たる。

一つは、昔話「ふるやのもり」

「ふるやのもり」という言葉には今でも背筋がヒヤ~っとするようなイメージがある。
いつ頃、どのような形で(絵本なのか親の語りなのか)知ったのかは記憶にないのだが、この話は私にとっては純粋に「怖い話」だった。
今読んでみれば、どちらかというと滑稽話に近いのかもしれないと思うのだが、幼い私は「悪いやつら」が早合点して慌てふためく滑稽さよりも、「得体のしれないものの怖さ」の方を強烈に感じたのだろう。
そしてその「得体のしれないものの怖さ」にある種のカタルシスを覚えたのだと思う。

もう一つは父が語った「狸に化かされた話」。
もう細かいところまでは覚えていないが、

リュックを背負って夜道を歩いていたら後ろから誰かが付いてくる足音がする。
が、振り返っても誰もいない。
歩いては振り返る、を何度か繰り返した後、後ろから肩を叩かれた。
しかしやはり後ろには誰もいなかった。
そして、リュックの一番上に入れてあった弁当がなくなっていた。
えっと思って辺りを見回すと、タヌキが弁当をくわえて走って逃げて行った。

というような話だ。
今思えばたわいのない話だが、私はこの話が大好きで、度々父に「狸に化かされる話、して」とねだった。
父は若い頃、家の近所の子供たち相手に子供会活動のようなことをしていたとのことで、お話を語るのが上手かった。
私が怖い話を好きなのをわかっていて、そんな話をしてくれたんだろうと思う。
そして私は思う壺にワクワクしながら聞いたものだった。

その後、ちゃんとした文学として出会った小泉八雲が決定打になった。
小学生の時だったと思う。
最初は「耳なし芳一の話」。
これも最初は父が語ってくれた話だったと思う。
私があまりに夢中になったので、この話はこの人が書いたものだよと、小泉八雲の本を買ってくれた。
その中で、耳なし芳一の話以上に私の心をとらえたのが「茶碗の中」だ。

それまでの「怖い」とは違う、ぞーっとする、という感覚をはっきり知ったのがこの話だった。
寝る時にこの話の情景を思い出すだけで怖くて眠れなくなるくらいの衝撃だった。
しかしその「ぞっとした」瞬間の感覚に病みつきになって、それ以来その感覚を追い求める人生になってしまったのだった。

小学生時代は江戸川乱歩にハマった。
楳図かずおの漫画にも。
中学生時代は星新一。
その後、松本清張、横溝正史、高村薫、宮部みゆき、京極夏彦、鈴木光司、貴志祐介、などなどなど・・・。

そして、デヴィッド・リンチの映画。

歳を重ねて感性もだいぶ鈍ってしまったのか、最近は心振るわす怖い話になかなか出会えない。
ホラーも好きだけど、どこか現実とリンクしているものが好き。
心の底から震え上がるような怖い話に、まだまだ出会いたいものだ。

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