朗読ではなく音読なのは
『感受体のおどり』を二度目に読んでいる時、ひとつひとつの章(この小説では「第〇〇番」という区切りになっています)が短めで、ふと声に出して読みたくなる箇所がたまに出てきました。平仮名が多く、文章の途中の読点(,)が少ないので、慣れると、その流れを口にしたくなるのです。
でも自分で「朗読」ができるとは思えなくて、「誰か俳優さんが『感受体のおどり』を朗読したらいいのにな、でも長くて無理だよなー」なんて思う程度でした。
それでもこっそり(?)試しに読んで、録音したのがスマホに残っていて、それは第160番でした。
世間の人たちがネット上に気軽に、おしゃべりも歌も踊りも、そして朗読も! じゃんじゃん発表していることに今更ながら気がついて、「自分が朗読すればいいのか!」と発見しました。が。
そこからこのnoteを始めるまでの経緯は、はしょります(また別の日に書けると思います)。
自分が今やりたい、というか、自分にできることは「朗読」というよりは「音読」だ、とわかってきました。登場人物の会話がカギかっこ(「」)でくくられていないということもあり、感情をこめて盛り上げる、というのが、『感受体のおどり』にはあまり合わない気もしています。
まずは、「文章の流れを口にしてみたい」という初心のままに、できることを続けていこうと思います。