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朗読ではなく音読なのは

 『感受体のおどり』を二度目に読んでいる時、ひとつひとつの章(この小説では「第〇〇番」という区切りになっています)が短めで、ふと声に出して読みたくなる箇所がたまに出てきました。平仮名が多く、文章の途中の読点(,)が少ないので、慣れると、その流れを口にしたくなるのです。
 でも自分で「朗読」ができるとは思えなくて、「誰か俳優さんが『感受体のおどり』を朗読したらいいのにな、でも長くて無理だよなー」なんて思う程度でした。

 それでもこっそり(?)試しに読んで、録音したのがスマホに残っていて、それは第160番でした。

夏ごとに図がらを変えるそろいの布が染めあがって   (以下は略)

『感受体のおどり』176ページより

 世間の人たちがネット上に気軽に、おしゃべりも歌も踊りも、そして朗読も! じゃんじゃん発表していることに今更ながら気がついて、「自分が朗読すればいいのか!」と発見しました。が。

 そこからこのnoteを始めるまでの経緯は、はしょります(また別の日に書けると思います)。
 自分が今やりたい、というか、自分にできることは「朗読」というよりは「音読」だ、とわかってきました。登場人物の会話がカギかっこ(「」)でくくられていないということもあり、感情をこめて盛り上げる、というのが、『感受体のおどり』にはあまり合わない気もしています。
 まずは、「文章の流れを口にしてみたい」という初心のままに、できることを続けていこうと思います。
 



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