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平和に殺される(2)

街灯にそっと照らされた緑。
どこかの敷地へ入ったようだ。木々が生い茂る中の、整備された道をぐるぐると、私を乗せたミニバンが走る。

突如現れた明るい場所には、[救急車両]の看板が見えた。
病院に着いたのだ。


車が止まってしばらくして、看護師たちが奥から出て来た。1番前に座る警察官と何かを話している。

私は指示されるがまま、車から降りて、看護師と警察官に連れられながら、大きな荷物を抱えて建物の中に入って行った。



とても広い廊下に、ほんのりアルコールの匂いがする。

[診察室]と書かれた部屋に、一緒にやって来た2人の警察官が入っていった。
先生に診てもらう、と言うけれど、私が診察室に入るのではないのか。

その間に、少し離れた部屋から泣き声が聞こえた。
そちらに目をやっていると、若い女の子とその母親であろう女性が、看護師たちに囲まれて出てきた。

これから自分がどうなるかなんて見当もつかず、言われるままに、診察室の前のソファーに座って待っていた。

この時間は、警察署から病院に到着するまでの間くらいに、すごく長く感じた。


いよいよ私も診察室へ入るよう誘導され、当直の医者の目の前に座った。
私の病気のことや今日の出来事は、全て先ほどの警察官らによって話が済んでおり、「今日はもう夜遅いし、ここで寝ていきましょう」と言われ、私から何かを話すことはなかった。

全てが突然で、全てが初めての出来事で、目まぐるしい半日を過ごした私は、ここで何か声を上げることもなく、はぁ、という感じで、その言葉に従った。



私は先のことを考えることができない。そして、いま起こった事柄に対しての思考や感情があとからやってくる。
その場での判断や、その瞬間に感情を沸かすことが苦手だ。
あとから、思い出したように頭と心が動く。



廊下から漏れるわずかな光から、案内された部屋の様子がぼんやりとうかがえた。
ここは二重扉になっていて、その隣には仕切られた小さな空間にトイレが設置されていて、あとは簡易マットレスと毛布、ドアの向かいの壁には頑丈そうな窓がついていた。

部屋の中で、数名の看護師に見守られながら、小難しい文言が並べられたいくつかの書類に、サインをした。
手が震えてうまく名前が書けない。

私は説明書や契約書を読むのが苦手だ。文字は読めても、言葉の意味を理解するのが難しい。
ただ、私が自殺未遂をしたために、ここで1泊しなければいけないこと と、この部屋には監視カメラが付けられていること だけはわかった。
それから、病名だったか症状だったか、その欄には『乖離状態』と書かれていた。

「何かあるときは天井に向かって声をかけてください。マイクが付いているのでそこで会話できます」

なんてハイテクなナースコールだろう。

酸素と脈を測る機械を指にはめるため、付け爪をベリベリと剥がされた。
不器用ながらにも自分で付けたチープな付け爪と自爪の間の糊が、私の爪の一部も一緒に持っていってしまった。
爪の層が剥き出て、どの指も白くガタガタになってしまった。
あぁ、オシャレなんかするんじゃなかった。

消灯の時間はとっくに過ぎていた。
こんな時間なので食事の用意はもちろんない。
私は今日何も食べていなかったけれど、空腹など感じなかった。
紙コップに入れてもらった水を飲み干す。

看護師たちは厳重に2枚の扉に鍵をかけて、部屋の外に戻っていった。

初めて来た病院だ。
明るい診察室を出たあと、少し先にあった分厚い扉の鍵を看護師が開け、暗い廊下を通ってここまで辿り着いた。
この建物の中がどんなふうになっているのか知らない。
天井のマイクと繋がるナースステーションが、この部屋からどれくらい歩いたところにあるのかもわからない。
そして、どんな患者が入院しているのかも。

ぐるぐると建物の周りを走る車から、なんとなく、すごく大きな病院なのだろうなぁと思っていた。
その広い広い敷地の中にある、どこかの小さな部屋。
それが今夜私に与えられた場所。

一晩ここで過ごせば、帰れる。

そう信じて、私は眠りについた。




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