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のの花だより12月号

冬至は水分の摂り方が変わる時


朝の訪れが日に日に遅くなり、起きるのが辛い季節になりました。時計ではなく陽の運びに合わせて暮らしたいと願うこの頃です。


一年で最も暗く、闇の長い冬至は、古来「一陽来復」と呼ばれるように、陰極まって陽に転ずる日。この日を境に太陽が力を取り戻し、日ごと明るくなっていく、まさに新年の始まりと言える日です。


現代ではイエスの誕生日ということにされているクリスマスも、元々はミトラ教など古代の太陽信仰の冬至のお祝いに習合する形で設定されたもので、聖書のどこにもイエスが12月25日に生まれたなんて書かれていないんですよね。


上の娘たちの通った幼稚園では毎年(私が通っていた頃からずっと)一年で最も重要なイベントとして「ページェント=降誕劇」を続けていて、それはそれは美しく感動的なんですが、私は娘たちに「でもイエス様は別にこの日に生まれたんじゃないよ」って事実は伝えてました。


世間や学校で言われていることの多くは単に「そういう設定」なので、乗らんでも良いし、そう知った上で楽しんでも良いと思います。


ともあれ、暗い季節を抜けて明るさが広がっていくというのは本当に嬉しいもので、たとえ寒さの本番がこれからであっても、陽が長くなっていくだけで希望が持てる氣がします。


さてさて、そんな冬至は、整体ではちょうど水分の摂り方を切り替えるタイミングになります。秋口の10月くらいからは、スープなど塩けのある温かい汁物が最も身体に浸透しやすいし、冬至から立春あたりまでの真冬には、冷たい水を少しずつ、小まめに飲むのが最も吸収しやすくてこの時季の身体に適います。


正月の若水取りに代表されるように、この季節の水は一年で一番綺麗で美味しいので、沸かしたりせずに「生きた水」を飲みましょう。特にお風呂で飲むのが有効です。


少し細かく言いますと、冷たい水を少し口に含んで数分間保ち、ぬるぬるになったら吐き出します。余裕があればそれをもう一度繰り返して、三回目でやっとひと口飲み込みます。いきなり最初から飲まないのは、このように焦らすことで身体の飲みたい欲求を高め、吸収を良くするためです。


ここまでするのは面倒だな、という場合も、とにかくガブガブ飲むのではなく、少量ずつ、身体に沁み渡らせるように飲むということを心がけてください。


ガブガブ飲んだ水は吸収されずにジャージャー流れていきます。白湯のような死んだ水は毒素排出のためにすぐに身体を通り抜けますし、コーヒー、お茶もすぐに流れ出す水分で、身体に潤いをもたらすことはありません。最も乾燥するこの季節に生きた水を浸透させておくことで、弾力のあるしなやかな身体が作られて、春先の様々な不調が無くなります。


この「のの花だより」を出し始めたのは今年の1月「真冬は小まめに水を飲め」という話からですから、今回で一年になります。お伝えし残していることと言えば、夏は後ろからの風で首の汗を引っ込めないように注意するのに対し、冬は前からの風を防ぐ、ということです。特に自転車やバイクに乗るときは、マフラーや風を通さない上着を身につけることで、心臓への負担を軽減してください。


以上で毎月のおたよりの表面(前半)を 読んでいただければ季節の養生はひと通り 網羅出来ているはずです。とはいえ、これを しなくてはいけないと恐れ囚われるのではなく やりたいことをサッとやる、やりたくないことをスパッとやめるのが一番の健康法です。


ひとつであること

先月のこと、末っ子が乳離れして以来3年あまりいつもキッチリ来ていた生理が遅れて「もしかして5人目?」とぬか喜びしたものの、そんなおめでたいことはなく、何週間も一向に来ないので、整体の先生に見ていただきました。


そこで左の足首がかなりおかしく、捻挫したような状態になっていることが分かり、そこを重点的に調整してもらったところ、2、3日して生理が始まりました。


もしかしたら食生活の乱れなどの原因もあったのかもしれませんが、多分、この足首の異常が一番の元凶だったのだと思います。



整体では骨盤、ひいては生殖器、泌尿器の異常に対して足首や足指を調整することが多かったり、メニエールのような目眩症状を治すのに腕の疲労の調整を行なうなど、一見「そんなことが関係あるの?」と思われるような操法が色々とあります。身体というのは部品の寄せ集めではなく、全部が繋がったひとつと見ているからこその見立てです。


また、鬱やストレスなどの心理的な問題とされることも、必ず身体にその状態が現れていますので、身体(主に背骨と骨盤)から整えてあげることが出来ます。心と身体も分けられるものではなく、元々からひとつなのです。


炎症を起こす=防御機能を働かせているからと言って、盲腸や扁桃腺を切り取ってしまうとか、ましてや将来癌になる可能性を避けるために卵巣や乳房を切り取るなんていう人体機械論とは、人間観が真逆なのです。


このような見方で心身を整えられると、病院で長時間待たされて辛い検査を受けたり、身体を切り刻まれたり、負担の大きい薬を入れたりする必要がないので、とても楽です。部分の問題を抑え込んで先送りして、別の場所により大きな問題を引き起こすようなこともありません。


設備の整った病院で最新の医療を受けたいという嗜好も、もちろん有りだと思いますが私は断然、楽でシンプルでお手頃価格、なるべく自分に優しい方法が好みです。


しかし視点を変えれば、そのような心も身体も不可分な「私」は、何兆個もの細胞が絶え間なく死んでは生まれることで作られ生きており、体内にはこれまた何兆という数の細菌を住まわせていて、その細菌の種類や割合に健康状態や性格を左右されている可能性さえあるのです。


さらに体内というミクロから環境というマクロに目を移せば、私たち自身がこの地球という生命体にとっての腸内細菌のような存在とも言えます。世界はまさにマトリョーシカのような入れ子構造、梵我一如です。


私たちの中の細胞も菌も、そのひとつひとつは特段、全体としての私のために連携して働いているわけではなく、ただ肝細胞は精いっぱい肝細胞として、大腸菌はひたすら大腸菌として心地よいように、それぞれ私たちから見れば刹那のような一生を全うしています。


自然界の動植物も同じく、皆自分が心地よい方へ向かって無心に生きているだけで、種を運んだり糞や亡骸を養分と化したりと、互いに補完し合っています。ある種が一時的に増え過ぎれば時間とともに再び駆逐されていくように、長い目で見ればきちんと調和を保てるようになっているのです。


最も身近な自然である私たちの身体に現れる変化も例外ではなく、痛みも腫瘍も、起こることすべては調和を保つための過程です。


この完璧な自然の仕組みを信頼し、安心していることこそが唯一の大事で、何を食べろ、何を食べてはいけないとか、どんな運動、どんな養生をしろなどというのはすべて、所詮は瑣末なことなのです。


私も食べ物や肌に触れるものにはかなり口うるさい方で、家族にも添加物やら化学物質など身体に悪いものは食べるな、使うなとついつい言ってしまいがちなのですが、そんなことに息を乱すのは健やかとは言えませんね。


もっととらわれのない心で、野口晴哉先生の言葉で言えば「自然の息に生きる」あり方を目指して、呼吸を静かに精進していきたいと思います。

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