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人生年表 アメリカ移住まで

書くか迷った。でも私という人間ができあがった背景は、これまでの人生にある。移住という思いがけない出来事を経て、ひとつひとつを思い出すと、

辛かったことは、今となっては糧になっている。
愉しかったことも、幸運も、力になっている。
後悔も過去への執着もない。なくなった。

しんどい時期は長かったけど、おかげさまで微塵も気にしない自分になれた。

この記事では、年代別のできごとや経験、ランダムにピックアップした思い出を添えて人生年表として残していきたいと思う。

1968年〜1980年

▪️0歳 1968年 金沢市に生まれる
▪️4歳 父方の祖父逝去 強烈に記憶している
▪️6歳 家族仲が悪く不安定な家庭環境が続く
▪️11歳 近隣の市に引っ越し転校する

1981年〜1986年

▪️15歳 家族不仲が影響し不登校になる
▪️16歳 両親が別居 父と住み家事をする
▪️17歳 父に進学を却下され就職を決める

1987年〜1998年

▪️18歳 就職。夜遊び三昧、ディスコ入り浸り
▪️19歳 一人暮らし、水商売の副業も始める
▪️20歳 最初の会社を退職
▪️20歳 初海外でバリ島へ。英語習得を志す
▪️22歳 親友と英語学校に週2回通い始める
▪️24歳 単身海外へ出発:米豪に計1年
▪️25歳 夏、帰国。翌月に両親が離婚。就職
▪️26歳 友人M(日本人男性)に出会う
▪️27歳 留学準備のため転職、夜は水商売
▪️29歳 3年半で留学資金目標額を達成
▪️30歳 春、派遣と水商売を辞め渡米
▪️30歳 夏、円安なり出稼ぎで一旦帰国
▪️30歳 冬、大学入学のためコロラドに戻る

1999年〜2007年

▪️30歳 冬、念願の大学生になる
▪️31歳 大学内の保育園でアルバイト始める
▪️33歳 冬、大学を卒業。保育士資格取得
▪️33歳 冬、OPTで保育園に就職。1年勤務
▪️34歳 春、翌年大学編入学予定で一旦帰国
▪️35歳 秋、資金源を失い大学編入を断念
▪️36歳 某大学の国際研究業務に採用される

2008年〜2017年

▪️40歳 友人Mが急逝。しばらく立ち直れず
▪️41歳 父方の祖母、あっけなく逝去
▪️43歳 両親が19年ぶりに再婚。ほっとする
▪️44歳 物事の捉え方を変えるためヒーリングを習い始める
▪️45歳 国際研究業務を無事やり遂げる
▪️48歳 夫らしき人との将来を霊能者から聴く

2018年〜2024年

▪️50歳 留学時のアメリカ人の友人らとコロラドで同窓会
▪️51歳 コロナ勃発。悩んでいた退職を延期する
▪️52歳 マッチングサイトで夫に出会う
▪️53歳 16ヶ月後、夫に会うために退職
▪️53歳 夫とはじめて会う。5週間過ごす
▪️54歳 旅先のビーチでプロポーズされる
▪️54歳 夏、結婚、翌月夫が初来日。能登の神社で挙式
▪️54歳 秋、配偶者ビザ(CR-1)を申請
▪️55歳 秋、米国入国を避けカナダで夫と落ち合う。実に13ヶ月ぶり
▪️55歳 秋、急激にビザ申請が動き出す
▪️55歳 冬、配偶者ビザが発行される
▪️55歳 春、アメリカに移住。庭にリスやシカが来る環境に住む

お庭のリスちゃん ガン見

私の人生における宝物

人生年表から、影響のあった3つの宝物について振り返ってみたいと思う。

1. 海外との縁

初海外
初海外のバリ島は思いがけず転機となった。文化や言語、人々の生活、習慣の違いに触れたのは興味深かった。タナロット寺院のサンセットは、まさに息をのむ美しさ。すべての経験が海外旅行が趣味となるきっかけを作ってくれた。

英語にも目覚めたが、このときの英語力はゼロ。言えたのは、hello、yes、no、thank you、bye だけ。全然会話じゃないし…そんなの普段使うし、のレベル。

初の海外長期滞在   "Don't judge a book by its cover."
1992年、オーストラリアのワーホリビザを取得。アメリカも経験したくて先に渡米。サンフランシスコ近郊に約2ヶ月半滞在後、帰国せず直接渡豪し9ヶ月滞在した。当時のワーホリはオーストラリア、カナダ、ニュージーランドの3カ国のみ。惹かれたオーストラリアを選んだ。主な目的は英語力向上。

アメリカ
お試しのつもりで行ったアメリカには、出会ったアメリカ人の明るさ、親切さ、合理的な文化など惹かれる要素がたくさんあった。滞在中はテーマを決めて人の多いダウンタウンに行き、道ゆく人にYouTuberのタロサックさん風に短い質問をして人との交流や英語に慣れていった。

オーストラリア
アメリカから直接シドニーへ移動し、ようやくのワーホリ生活。住まいはすぐに見つかった。数年住んでる日本人とイギリス人と新しいマンションをシェア。家賃は1か月でAU$400くらい。今のオーストラリアじゃ考えられない。

最初の勤務先はダーリングハーバーの土産屋。厚化粧のコリアンのオーナーはクセがあって、初月の給料の計算違いを伝えたら、翌日クビになった(笑)きっと意図的だったんだね。その後ルームメイトの紹介で勤務した免税店はパラダイスとなった。

免税店では「さりげなくしつこく」をモットーに、自然にペラペラ出てくる話術と笑顔を武器に、売るぞ!という下心はひた隠しオパールを売りまくった。高額含めなぜかよく売れて、100万のオパールを売ったとき、農協のお爺ちゃんが腹巻きから100万円の帯がついた札束を出し支払ったのには驚いた。今でも思い出すと笑える。

ワーホリの後半はパースの語学学校と旅行で過ごす。移民のホストファミリーは経済的に大変だった印象で、夕食のソーセージは4ドルしたとか、シャワー5分、迎えはガソリン代5ドルとか色々言われたな。シャワー5分だと長い髪を掻きむしるようにとっとと洗い、全身にお湯かけるくらいしかできない。イギリス北部の発音にも慣れてなくて苦労。例えば、butterをボターというとか。

あっという間に過ぎた充実した日々。おかげで太らない私が1年で10kg増量。パンツがピチピチになって帰国。アンビリバボーでした!

アメリカが思っていたより肌に合った。これは本当に大発見で、見かけで判断してはならない、
そう思った。そして、

心に従い本当にやりたいことを実現したことが、
人生と自分自身の肯定感に一気に繋がった。

アメリカ大学留学
準備期間の約4年、留学生活の5年間は流石に凝縮できず、別記事に書きたいと思う。

国際研究業務
アメリカ留学から帰国後ようやく見つけた仕事は、採用後知ったが、アメリカのある有名大学、その他数カ国の大学との長期共同研究の業務だった。日本側の業務以外はすべて英語、アメリカやヨーロッパへの出張も数回経験させていただいた。詳細は割愛するが、この業務のおかげで、アメリカが好きになったきっかけの土地に住む同僚との縁ができ、自分自身も英語も活かせ有意義な年月を過ごした。私にとって本当に尊い経験になったと思う。

2. 友人

私は本当に人に恵まれている。必要なときに、必要な人がやってきたり、助言してくれたりする。おもしろい出会いも多い。

高校3年の同級生
家庭の問題で辛さがピークにあった高校時代は、3年生の同級生たちのおかげでトンネルから出た時のように急激に陽がさした。授業中の手紙交換や悪ふざけ、部活動も一緒だった子たちとは、歩いてバス停に行く間のレストランによく寄ったり、笑い転げたり、自宅にお泊りに行ったり、本当に救ってもらった。

中学の同級生
超がつく滑稽さがあり、口もたつ彼女は水商売の世界で人気者となり、20代半ばで自分の店を持っていた。私は留学資金を稼ぐために昼は制限の多い正社員から転職、夜の副業は水商売と思っていたところで彼女から「今日女の子足りなくてね、手伝ってくれる?」と電話が入った。実はね、と事情を話したら「なら、来て来て!」と、いい時給で雇ってくれた。私の源氏名は「磨美(まみ)」ちゃんでした。

彼女のおかげで貯蓄も順調にでき、3年半ほどの期間安全に楽しく勤務できた。お客様の層も良く、沢山学んで助言もいただいた。渡米のため辞めるときは、お客様もホステス仲間も一緒に祝ってくれた。皆んな元気かな。

友人M
彼は日本人男性。がんに罹患し入院後2ヶ月で亡くなってしまった。今でも思い出すと胸が詰まる。大学院と仕事でニューヨークに7年住んだ経験があり、非常に英語も流暢で、日本帰国後も月数回の海外出張を繰り返す日々だった友人M。いわゆるエリートなのにフレンドリーで、ワインを飲みながらケラケラ笑い馬鹿を言ったり、サルサを上手に踊る人だった。

最後に会ったのは偶然会ったレストラン。最後の連絡は亡くなる3週間前。いつもなら速攻返ってくるのに3日後だった。どんな思いで逝ったか、病室に大好きなサルサが流れるなか息を引き取ったと聴いた。会いたいね。また一緒に笑いたいよ。

留学時代の日本人の友人
彼女との出会いはユニーク!向かい合った試着室で、同時にカーテンを開け目が合ったのが出会い。「日本人ですか?」と訊かれ手招きされ、それから会うようになった。経済的にギリギリですべて計画どおりにすることでしか留学の目標は達成できず、あまりに頑張り過ぎていた私に、ある日彼女が言ってくれた。

「自分が思う道以外にも、きっと幸せになれる道があるよ。」

衝撃的だった。良いと信じやってきたことが、実は自分を壊している。それを感じているからこそ、彼女の貴重な助言に凍ってしまった。彼女の言葉は私の心に残ってくれ、困難に思えるときに繰り返し思い出している。

国際結婚した地元の友人
これまたユニークな出会いで、面接の筆記試験で向かい合わせに座り微笑んだのがきっかけ。面接に行ったのに二人ともその仕事をするつもりは全くなく、面接後エレベーター前で話して仲良くなった。彼女は国際結婚をしアメリカに移住。なんと現在私の住む場所から車で3時間のところに住んでいる。アメリカで車で3時間は近いと言われる距離。彼女には夫と私の弟にLINEで繋がってもらっていて、私に万が一のことがあった場合の連絡網にもなってもらってる。本当にありがたい。

旅行会社のお客様との再会
すごいなとしか思えないのが、20代に勤務していた旅行会社で2度航空券のお世話をしたお客様との再会だ。なんと10年後、私がアメリカから帰国後の職場の人の仲の良い幼馴染だったのだ。ある日話しの内容から、もしかして?と思いお名前を訊いたら、そのお客様だった。その後、日本帰国時に再会でき、以後友人として良くしてくれている。ご主人には偶然にも地元の英会話スクールでお会いしているし、本当にご縁があったんだなと、再会を思い出すと私の人との縁がいかに特別かと嬉しくなる。

3. 家族

「大切な人は私から離れていく。」
私の人生で長く過ごすことができた祖父母は、父方の祖母だけだ。可愛がってくれた一方で、小さい頃から家族間の喧嘩が絶えず、大人の顔色を見て育ったと思う。朝起きたら母がいない、学校から帰ったら祖母がいない。1ヶ月くらいして戻ってくることが何度もあった。私は小さな体に大きなランドセルを背負って、思いつく家を訪ね、街中を歩き回り探したことをよく憶えている。

「大切な人は私から離れていく」という以前あったネガティブな信念はこの時期にできたのかもしれない。でも今はもう昇華できている。

思春期には不登校や両親の別居を経験する。家に居れば家族の様子を見届けることができるし、間に入ることもできる。両親の別居中は、家事をするため父と同居。授業中は夕飯のメニューを考える毎日だった。

オーストラリアから帰国した翌月、両親が離婚。私は25歳だったけど、空になった母の部屋を見た時に現実がのしかかり記憶がないほど泣きはらした。親の離婚はその歳でも深い傷になった。そして、この日から家事一切をすることになる。

離婚した両親の再会を取り持つ
二人離れて住む両親のことがずっと心配だったから、アメリカ留学の目処が立ったとき父に母の居場所を教えた。お互いに助け合ってほしかった。この時から両親は他の家族に隠れ会うようになり内心ホッとしたし、よく両親と兄弟で集まり一緒に食事や旅行もした。再会を取り持ったことで、私はアメリカに安心して出発することができた。

私が40歳、父方の祖母が亡くなるその日、母も呼ぶよう他の家族が言ってくれ、意識が既にない祖母の病室に母も訪れ看取ることができた。祖母の3回忌を無事終えた2年後、両親は19年ぶりに再婚。改めて夫婦になった。珍しいケースだと思う。今もとても仲がいい。

子供の頃には気づかなかった愛情
子どもの頃は辛すぎて、なんでこの家族に生まれたのか痛烈に悔やんだけど、家族も皆んな人の子であって、育った環境や人間関係で形成されている。たとえ自分にとって心地よさがなかったとしても、子育てや結婚生活が不器用であったとしても、その時期にできる範囲で一生懸命に育ててくれたなと思う。それに、過去も人も変えられないんだから、考えたって仕方ない。

子どもの頃から家事一切をするとか、夢の職業のための進学を却下されたとか、嫁に行く資金は自分でとか言われ、はぁーそうですか、じゃあ何かしたいときは全部自分でやらなきゃね、とやってきたけれど、そのスパルタ人生のおかげで、生活力、自立心、やり抜く力が自然と身についた。

おかげさまで精神的自立を学びました。ありがとうございますと父に言ったときには、かなり苦い表情をしてたね。素直にそう思ったから言ったんだけど(笑)

多額の資金が要る長期留学も自分の稼ぎだけで実現、幼稚園で教える夢はアメリカで叶えた。今は道楽しているが、家事も一通りできる。先日夫が、私が子供の頃から主婦のように家事をしていたその恩恵を僕が今受けていると感謝をしながら表現してくれた。

私が成し遂げてきたことは自慢ではなく、誇り。複雑な家庭だったけど、その環境や家族のおかげで育った私なりの美徳も、強さも、粘りも私にはあると思っている。

アメリカ移住の日
2024年3月、とうとう来たアメリカへ発つその日、両親それぞれが手紙をくれた。特に父は後悔と謝罪ばかり書いていた。20代後半、祖母のことで強く意見した私を平手打ちし、鼻血を出して逃げまくる私を抱え込んで叩いたことがあった。30年近く一度も触れなかったその出来事に対して深い後悔と罪悪感が書かれていた。

これを機内で読んだとき、涙が止まらなかった。同時に、家族一人一人に宛てた手紙を自分の部屋に置いてきてよかったと思った。

生まれ変わっても、父の娘になりたい。
生まれ変わっても、母の娘になりたい。
生まれ変わっても、弟の姉になりたい。

また一緒に家族として生まれたい。そう書いてきました。

...生まれ変わってもって、
これ、どこかの芸能人が涙して言いましたな。

まぁ、これが私の人生です。暗かったですかね?

私は案外平気で、いろんなことがあったけど、一生懸命生きていたからか不思議と満足してます。

人生 生きてるだけで丸儲け。本当です。

長文をお読みくださり、ありがとうございました。
感謝を込めて。

小学生のころ。ガッツポーズで「人生生きてるだけで丸儲け!」


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