国際結婚 距離と母の涙
子どものころから、お箸は上のほうを持って食べていた。「箸の上を持つ子は遠いとこに嫁に行くっていうね。」何度もそう言われ育った。成人してからもたびたび言われ、ずっと独身だったわたしは「遠いところどころか、誰ももらってくれんがいね。」と笑い話にしていたが、迷信が当たったのか、わたしは地球の反対側に嫁に来た。
箸の上を持つ娘は52で伴侶と出会い、54で結婚、56の手前でアメリカ東部に移住した。移住前に母と「お箸の迷信、本当かもね。」と笑った。人生の折り返しを過ぎてからの出会いや結婚は、これはこれで若いころにはなかった冷静さや平穏さがあり、なにも思うことはない。ただひとつ、それなりの年齢のわたしたちの両親もそれなりの高齢だから、叶えられることに限界があるという現実である。
まもなく移住して10ヶ月になる。日本出発前、父は「ののちゃんに、また会えるかな。」と、まるでもう会えないかのように言った。移住後は母が「ののちゃん、会いたいね。」「行けるものなら今すぐ行きたい。」が口ぐせになった。
両親も精いっぱい娘がそばにいない新しい環境にアジャストしようとしているのを感じる。両親にとっては「今」がテーマなのだ。
利かん坊のわたしは、いつも金沢弁でこう返す。「よう考えてみ。54までそばにおったんやよ。いっぱい旅行したり、おいしいもん食べに行ったりしたやろ。世話もしたぞ。みんな30前には嫁に行っとる。売れ残りは54年間も一緒におれたんやから、あんたラッキーや〜。」
両親は「まぁ、それもそうや。」と笑う。
国際結婚の場合、日本に住むか、相手の国に住むか、はたまた第三国に住むか、いずれかになる。わたしの場合は相手国である。わたしの幸せを祈り、越えられないその距離を一生懸命に納得しようとしている両親。顔を見せ一緒に過ごす最初の帰省は、結局今年の夏にした。
大きなお金を使い移住したから2026年でもいいと思っていたが、80を過ぎた両親の思いと、日本が大好きで旅行を切望する夫の思いを叶えるために変更した。
決めた途端にわたしも乗り気になり、夫と具体的な旅程を計画し始めた。幸い、航空券代も6月なら思っていたより安く、ますますノリノリになる。わたしの旅の目的は地元なので、旅先は夫の希望とわずかな滞在日数に合わせて、今回は石川、京都、東京にした。夫は2週間、わたしは1ヶ月滞在する。
元旦の朝、家族とGoogle Meetで新年の挨拶をした。夫の通訳もしながら少し話したところで夏の日本帰省をビックニュースで伝えた。途端、母が大泣きした。口に両手を当てがい「あぁ、うれしい!」を何度も繰り返して泣いた。コロナ禍での日本滞在で一度しか会っていない夫にも、しきりに会いたがっている両親は大喜びした。
決めてよかった。わたしも夫も、両親の反応を心からうれしく思った。そして、夫に伝えた。「やっぱり日本は毎年行くよ。わたし一人なら実家に居て飛行機代くらいだからね。」
アメリカでは日本からいちばん遠い東部に移住したわたしにできることは、これしかない。両親の気持ちをいちばんに、可能な限り甘えて一緒に過ごすことにした。距離を埋める最大の親孝行は、思い出作り。思い出という無形の財産は、気持ちのなかにずっと生き続ける。箸の上を持つ利かん坊は、母の涙でやっと気づいたという話である。
写真は我が家の元旦の夕飯。お雑煮、ひじき、煮物、だし巻き卵、3種の豆サラダを作った。
少食のわたしたち二人に日本のおせちを作る予定はなかったが、「お雑煮を食べてみたい。」と夫が突然言い出した。
リクエストに応じて有り合わせの材料で、急遽大晦日におせち風の夕飯を作った。うれしいことに、昨年日本に帰省した友人がくれたお正月風のめでたいデザインの仕切りが大いに役立ち、おせちっぽくなった。お雑煮、煮物、ひじきをはじめて口にした夫。なかでも、いちばんのヒットはなんと、ひじきの煮付けだった。
夏の日本滞在中、夫はわたしの母の料理も食べたいと言っている。前回はコロナ禍でなるべく多くの接触を避け、顔合わせや挙式で1週間の滞在が終わってしまった。次こそは家族らしく、のんびりできることを全員が楽しみにしている。