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自分たちの青い春
青色、すきなんですよね。柴田ののかです☺︎
わたしは舞台役者の傍ら下北沢の三叉灯という雑貨屋さんでお仕事をしていて、お店に立つ日には「今日も今日とて三叉灯」という日記のようなものをInstagramのストーリーにあげています。
いつもそのストーリーにBGMをつけるんです。
”その空間・状況にいると聴きたくなる曲”ってのが自分の中にあるので、その場を表すかけらを拾って、つなぎ合わせて、”日常×音楽”みたいなことをする。
それが音楽に助けられてきたわたしの人生なのでね☺︎
(一応意味掛け合わせてるつもりなんだけど気付いてもらえてんのかな…)
(まあ気付かれなくてもいっか、すきでやってることだもんね)という気持ち
もちろん自分のすきな曲や助けられてきた歌から選んでいるので、なんか自分のBGMをきっかけに聴いてもらえたら少しの恩返しとかにならんやろかというのもちょこっとあります。ちょこっと、でも大きめのちょこっと。
これを書いている現在三叉灯では画家の高橋岳人さんの個展「DEAR FUMBLER」を開催していて、この会期中にはback numberの4thアルバム『ラブストーリー』から選曲しています。
それは以前、三叉灯の店主さんから高橋岳人さんが「ひとりごと集」という詩・川柳と絵のZINEを発刊していることを教えてもらい、店主さんのを拝借して拝読、これにものすごく感動したので自分の手元にも置いておきたくなって、最新刊だけでなく旧号つまり”バックナンバー”も購入できる場所を求めて豪徳寺にある七月堂古書店まで足を運んだ事に由来しています。
でもそれだとあまりに個人的すぎるので、個展の各要素を拾って、掛け合わせて、
・最新刊「ひとりごと集 四」の題「ロンサム・フィッシュ」→『fish』
・会場の二面採光や三階建ての窓がつくる景色の美しさ→『光の街』
・下北沢での個展開催→『世田谷ラブストーリー』
…みたいな感じで、写真撮って、音楽つけて、文言でほのかに香らせて、個人的範疇を超えて「今日も今日とて三叉灯」をたのしめるようにしている!つもりです…
この流れでいくと『ラブストーリー』から選んで記事を書くのが順当なんですが、すでにInstagramにこのアルバムと出会ったきっかけ『世田谷ラブストーリー』にまつわる話を綴っちゃっているんですよね。
だから今回はこの話のはじまりみたいな、back numberの『青い春』にまつわる話を書き綴りたいなと思います。
地元の友人とわたしとのちょっとした青い春の話です。
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わたしにはなにかしら悩むとにback numberの楽曲と一緒に励ましてくれたback numberずきの友人がいます。
あ、『世田谷ラブストーリー』の投稿にも出てきた友人のことです。
うまく言えないけど(あ〜、この子がback numberがすきっていうのわかるな…)みたいな性格をしていて、なよっていつつも芯が通っているおもしろい友人です。
あ、悪口とかじゃないですよ、これ。ほんとに。
地元の友達なんですけど、しっかりしてて頼れるし自分より社会人経験が長いので仕事で悩んでこの子に電話で相談した時期とかもありましたもん。
学生の時もこそっと愚痴吐かせてもろてよくその子からドンマイをもろてました。
すごくおもしろくて、すごくやさしい人なんです。ただ、なよっては、いる。
それがその子の人間味を感じられる、素敵なところなんですよね。
周りに対して気付けることが多いんですよ、しかも物腰柔らかで。でも不器用で。
お互いに”みんなのことを支えるのに、おいしいところは誰かに持ってかれる”みたいなところがあって。そんなところで仲良くなって。
何回交わしたっけな、
「いや、いつもありがとね」「いやいや〜、そっちもでしょ笑」って会話。
明言せずとも互いの感覚的なものを共有し合う時間が結構あったんですよ。
「何が」とは言ってないけど「それ」だとわかって会話を紡いでいく、っていう。
相手に状況を説明し出して「なんて言ったらいいかな〜…」と詰まり出したら、「たぶん君なら、なんとなく、わかるやん?」「うんそやね、わかるよ」って話が進んでいく感じ。割と察しのいい二人だったので明言せず感覚的な文脈のまま伝えた方が過ごしやすい相手だったんですよね。
だからこそ
……だったのかはわからないですけど、
「なにかを言葉で伝えるよりも、似たような境遇に遭った時に揺さぶられた曲を教えた方がいいやら」とその子の直球かつ短い言葉とback numberの歌をセットに教えてもらうこと数曲。
わたしはそれらをアルバムで聴いたので楽曲も乗り越え方も合わせて色んなものをその友人に教えてもらいました。
ありがとな。おかげで大人になった今でも自分の青い春を謳歌しているよ。
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back numberの『青い春』、聴いたことありますか?
聴いたことない方はぜひ聴いてほしいですし、お時間ない方はひとまず歌詞だけでも検索していただけると嬉しい限りです。
『青い春』の歌詞には”踊る”とか”ステージ”とか、”リズム”とか”ダンス”という言葉が使われています。特にサビの部分に濃く。
比喩だと思うんですよ、大概の人にとっては。
でも友人とわたしにとっては比喩ではありませんでした。
『青い春』発売当時の中学生、二人とも実際ステージに上がって踊ってたんです。
あ、一緒にではないですけど。向こうはダンス、こっちは合唱団。
ダンスは激しい踊りを踊り、合唱団では歌いながら踊り。ステージの上で音楽を通して表現をするという点でわかり合える部分があったのでよく話していました。
実力、運。才能、センス。選抜、ソロ。ポジション。練習、本番。憧れ、現実。
一位や記録では測れない感性の世界。発表の場の大小。憧れ、現実。
先生。先輩。後輩。同級生。その関係性。仲間、ライバル。それ以上とそれ未満。
自己表現。みんなと揃えるところ、個性を出すところ。自己理解。作品理解。
組織の中での一員としてと表現者としての異なる必要のされ方。などなど。
この話をできる時間・相手っていうのが当時のわたしにとってすごく貴重でした。
しかも合唱団生ではなく学校の友だちっていうのも大きかった。
仕事の話を仕事とは全く関係のない人に話せる安心感に近いものですね、きっと。
悩みの根源と触れないからこそ中立でいてくれたり吐き出したものが悩みの対象に流れ出なかったり、でも寄り添ってくれるおかげで些細でも慰みになるという。
舞台に立っている時間って一瞬で過ぎ去っていくものなんですけど、舞台に上がるまでにかける時間って驚く程長いんですよ。
一瞬のために時間をかけますし、時間かけたのに一瞬だったこともあります。
かけた時間がそれに見合うことも見合わないことも、以上だったことも未満だったことも、満足いくこともいかないことも納得いくこともいかないこともあります。
観ている人にとっては鑑賞するその日その時間にステージで視認できることがそれを理解できるほぼすべてだと思うんですけど、立つ側はそこに立つまでのことを背景にそのステージでおこなわれていることを捉えています。同じ時間を共有していたとしてもやっぱり観客が観ている光景と演者の観ている光景も違いますからね。
あと舞台に上がってなにかをする・誰かに観てもらうっていう機会があるもの(ダンスでも合唱団でも)が習い事として多数というか今ほど受け入れられているものではなかったし、アイドルやダンサーなどのオーディション番組も今ほど盛り上がっていたわけでもないので、舞台に立つまでの時間・やっていることを視認できる環境っていうのがあまりなかったように思います。
振り下ろしされて、覚えて、通せるようになってからが最低ライン。そこから魅せ方だの個性だのを加えて、誰かに見てもらって削られて、整えて身体に馴染ませる。今でもその曲かけてもらえれば割と踊れるくらい染み込ませていく。
だからよく言ってしまうんですけど、時間のかけ方や思いのかけ方を伝えても
”中学生当時、あんまり周りに理解してもらえなかった”と感じていたわけです。
理解されなかったというか、ダンスとか合唱団のレッスンって言って休んだり抜けたりしているけど何してるか知らないな、知らないけどわざわざ本番見たり知ったりするほどでもないな、みたいな。すきでもきらいでもなく、関心なし。
ほら、相談相手になるにはある程度の理解と関心が必要じゃないですか、だから相談相手ってのが少なくて。相談相手になれなくても愚痴や弱音を吐露させてもらえるだけで、気持ちのやり場があるだけで、だいぶ救われてたんですよ。
舞台に立って表現できるんなら選抜入りもなしも大差ないでしょって、そんなはずない。たとえ選抜やソロで表現できる時間が短くてもそれは大きな一瞬であって。
同じ舞台に立つでもその中の高次のやりたいことに届かなければ見ることの出来ない光景、包まれることのない光、味わうことのない感覚ってのがあるんですよ。
憧れも尊敬も夢も希望も詰まっていますから、その一瞬のために練習して。
その練習のおかげでやりたいことができるという理想の未来が用意されているかと言われればそんなことはない。今回ダメなら次、の次はもう別モノだったりする。
互いに小学生から始めたダンス・合唱団を中学生になっても続け、中学で部活必須になってからも両立させながら続け、配分に差はあれど続けてきたんです。
ただでさえ葛藤する思春期、そういう表現者としての葛藤も積み重なって。
表現者として抱えた葛藤を、抱え続けている葛藤を、どうしていくか。
未熟で青い、自分たちの思春期だったわけです。
青春ってなんなんだよ。
当時、必死でした。
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上手いってなんなんだろう。
感性の世界の中でどんな基準で選ばれているのかわからない不透明さ。
でも言葉で表現できないけど視認できる明白な上手さを基準にした透明さ。
「back numberの『青い春』、聴いてみ」
比喩だと思うんですよ、大概の人にとっては。
でも友人とわたしにとっては比喩ではない。
『青い春』発売当時の中学生、二人とも実際ステージに上がって踊ってたんです。
その背景を持って、この歌・この歌詞を、多感な中学生が、真正面から捉えると、
頭思いっきり殴られたんかぐらい強い衝撃を喰らいます。
「『青い春』さ、めっちゃかっこよくなかった??」
自分にとってのかっこいいと他者からのかっこいいがズレることもあります。
自分の頭で思い描いた表現を身体でやって鏡を見てズレていることもザラです。
手応えを掴んでいた時に限って結果を掴みきれなかったズレもよく味わいました。
あんなに練習したのになんでうまくいかないんだというズレも知っています。
目の前のやりたいことに眩み初期の楽しさとズレていったのは後から知りました。
「青春できてる気せんけど青い春は送れとる気するわ」
雑用というか名前のない仕事とか、誰もやりたがらない役割とかやっても、
それはそれ。これはこれ。選抜発表で名前を呼ばれることはなくて。
任されて後輩育成のためって教えていたら後輩が選ばれて自分は落ちたりして。
選抜の対象年齢にギリギリ入れなかったら条件に合ってた先輩を羨んだりして。
みんなのことを支えるのに、おいしいところは誰かに持ってかれて。
「もうよーわからん笑」
仲いいのかライバルなのか同級生でさえも選抜一つで人間関係変わったりして。
表現する上での悩みとそれ以外の悩みを混合させて余計絡まっちゃったりして。
大人への過渡期を迎えて覚えたての理不尽を周囲に向けて疑い出したりして。
”夢を見ては打ちひしがれて”
”立ち上がってはまた憧れてさまよって”
「けど、がんばるわ」
”自分を知った気になってまたわからなくなるそんな”
”青い春という名のダンスを”
「なぁ。がんばろまい」
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back numberずきの友人のこと。なよってるって言いましたけど、
わたしもなよっているんですよ。わたしも、というか、わたしの方がね。
友人がなよなよくらいなら、わたしはなよなよなよぐらいかな。
なよ一つ分は、大差ないように見えて実際に見たら大きな違いだと思いますよ。
そのなよ一つにしなやかさ、通っている芯が見えてきます。
この世には口で言っても伝わらないけど目で見たらわかるものってのもあるんです。それが表現であり自分たちの辿ってきた中学時代でもあります。
今はそれぞれ大人になっていてダンスも合唱団も辞めて、そこで培ったものを胸に『青い春』で”ステージ”や”ダンス”と表現されていた社会の中で生きています。
ただ見ている光景は変われど葛藤していることは変わらない模様です。
自分も友人も。
わたしが帰省する時はその子含めた仲良し5人組があるのでいつも連絡して集合、年1で会えるか会えないかぐらいですけど、その呑みの席でそんな葛藤を肴に「大人になったわ〜」と語り合っています。そして解散して、それぞれの日常を頑張って、また集まって……じっくりと葛藤と前進を繰り返す。
元々はわたしが声をかけて集まった5人が、いつしか恒例メンバーになりました。
特にその友人は「また集まりたいんやけど次いつ?早よ!」と連絡をくれます。
あ、”中学時代なかなか理解されなかった”といったもののゼロではなくて、観にきてくれたわけではないけど興味を持ってくれたり説明した言葉で「なんとなくわかったかも」「なんかわからんけどすごっ」って言ってくれたり。
そういう子たちの集まりで恒例メンバーとなりました。
大人になって住む場所も仕事も違うのに定期的に集まっていて、中学の同級生なのに中学時代よりも今の方がより濃い関係性になっています。
なんだか当時よりも青春だなぁとか、青い春がきとるなぁと思います☺︎
『青い春』
葛藤し続けながらも前に進み続ける時間、そういうのが青い春なんだと
葛藤の中で孤独になりきらず、青い春を謳歌できるようになったのは
そういう誰かとの想い出のおかげでもあって
たぶんわたしは未だに青い春を送っていますしこれからも青い春を送ります
わたしはまたステージに上がることも、舞台に立ち続けることも、夢見ていたい
今でも、いや大人になった今だからこそ、
back numberの『青い春』を聴くとより強い衝撃を喰らっています
これからは自分で立つ舞台を自分でつくる
新たなステージで這いつくばりながらも踊ることに決めました
企画、執筆、制作をはじめたということです
まだまだ青いですが必死で生きようと思います
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