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NOT繊細!!
かつて、弟は繊細だった。
「かつて」の言葉の意味通り、現在その繊細さは鳴りを潜めているのだけれど、「かつて繊細だった」がために「こいつにはどこか弱い、優しいところがあるんだよなぁ」と思ってしまうこともある。たった4歳しか離れていない姉である私でさえそう思うのだから、家族を含め親族一同そう思っている気がする。
ただ、当の本人的にはそんなことはなく。皆の心配、というよりイメージを知ってか知らずか、生きやすい人間に育ってきている。少なくとも、今の弟から繊細さは微塵も感じられない。
10年前。「もう10年」というより「まだ10年なんだ」という体感であるくらい、繊細で鮮明な記憶がある。
弟が小学校1年生、私が小学校5年生。入学式の翌日、弟が初めて登校する日。
でかでかと「交通安全」と書かれているカバーを取り付けたランドセルを背負った弟に、姉らしくナップサックの背負い方を教える。
「裏返しにして持つじゃん?で、こう!!」
自分のお腹に裏面を向けた状態で持ったナップサックを、ひょいっと背中側へ回す。縄跳びの後ろ跳びをするときみたいに。
姉貴面をして色んなことを弟に教えるのが好きな年頃。弟の小学校入学でいちばん浮かれていたのは私で、このときいちばんドヤ顔してたのも私。
手は繋がなかった気がするけど、玄関先で父母に記念写真を撮られ、一緒に学校に行った。
私の通っていた小学校は5年生の校舎と1年生の校舎が少し離れていたから、先に弟を見届けてから自分の教室へ。
そこからの記憶は、泣きわめいている弟・弟・弟。弟一色、弟色。
どんな経緯で私は1年生の教室へ向かったのか。覚えていないのは、弟の泣き方があまりにも悲壮だったせい。
私にしがみつき、
「おかあちゃんにでんわして~~~~~~」
と廊下中に響く声で泣きわめいている我が弟。
近くにいた先生に事情を聴くと「体操服を忘れた」ということらしい。その状況で「お母ちゃんに電話して(体操服を持ってくるように言って)」が出てくるのがいかにもマザコンだった弟らしく、今となっては笑える。
が、そのときは笑い飛ばせなかった。これ以上ないくらい懇願して、パニックになって泣いている弟。可哀想やら、恥ずかしいやら。後にも先にも、人の忘れ物が原因で、こんなに泣きたくなったことはない。
そして、ぼんやり思った。
「あぁ、私が必死に背負い方を教えたナップサック。あれ、何にも入ってなかったんだ。あれ、体操服入ってなかったんだ」
あのとき私が確認していたらよかったのに。そこまで思った小学5年生の私。
かつて弟は繊細で、かつて私はお人好しだったらしい。
人は3歳までに人格が形成されるとよく言うけれど。繊細だった弟はNOT繊細になり、お人好しだった私はNOTお人好しになった。
ヒトって、どんどん生きやすいように進化を遂げる生き物なんですね。