声を聴いて 

ちゃんと、音楽を聞いてる

僕は、誰に御免か分からない訳じゃないけど、もう何も先を見ていなかった

が、僕は久しぶりに見たライブ映像にまた目を覚めさせられる今夜は。
きっと、御免だけど、明日になればまた悲しくて動けないかもしれない。

仕事をしても、もう御免だから、何ももう興味が無いよって、みぞおちが重い。
病院はどこもストレスとか言ってくれるけど、自分が一番自分が甘ったれてる事くらい、僕がまた魂の話を忘れて、大切な大事なことを見失ってしまっていたよ。

僕はやっぱり音楽で、自分が間違ってるのか、道を見誤ってるのかを気付かせてくれる、忘れてしまう俺もいい加減大人になれよ、と思う。
死んで償えばいいか 

明日も、きっと、外の光にやられて息が出来ずに蹲ってる
そこからでもスタートして、僕は皆とも誰かとの約束も守る。

僕は今は約束は守る。僕がいつもそうやってきつく声を荒げているんだから責任も話の筋も通す、また御免と言うが、次つまずいたら、もう 一回休む

後から更新される日記は、今日以前に書いたものが上がってしまうと思うけど、僕はまだ大丈夫です。

できれば、今まで悩んでいた頂いていた嬉しいコメントを改めて読ませてもらいます。
お盆だから、町が動いているから、もう自分だけが否定されているみたいな世界だ。

今は外に出るのも賽の河原みたいで、もうほんと勘弁してくれよ、何でここまで俺はこんな事ばかりの目を振ってしまうのかと思う。
神様は残酷だなんて一切思ってない、だから僕は確実に大人になって成長している。

けれど、頭から心が痛い。
この異形になった脳、質が変わった神経。
経験が故に慣れてしまった地獄にもう覚悟が決まらなくて怖い。
けれど、あと生きている間、ずっとこんなつらい目をして生きるのは嫌だ。


ドライブ、悲しくなる。
ひとり、寂しく虚しく切なく苦しくこのままどこかに消えて何処かで僕も都合よく死ねたらとまで想う。

この孤独や不安の感情を死ぬまで僕は抱え続けるんだ。

悲しい悲しい悲しい、言葉三つ。

言葉を重ねるのも、乱用するのも、躊躇わなくなってきた。
悲しいものは悲しいし、死にたい、死にたくなるのも同じ。

僕と言う人間はこういう人間。
僕は哀しい。怒りや不安や憤りを超えて絶望したい。

この悲しい気持ち、さびしい感情。
どこにも行き場のないやり場のない孤独と辛さは、僕の呪いであり、僕だけの死ぬまで無かった事には出来ない。これも呪いなのだ。

辛い。消えたい。苦しい。寂しい。虚しい。もう嫌だ。
そんなところで、コンビニから。

意味も無く夏祭りも、盆踊りも観たくない。

もう僕は、大阪にも東京にも福岡にも北海道にも京都にも行きたくない。
行ったって良い事も楽しい事も無いんだよ。

時間を失って、お金を失って、未来を食いつぶすだけ。

落ち着け落ち着け。
安定剤でも飲め。

自分が幸せに生きられる場所は自分で作るんだって。

もう僕は死ぬしか僕は報われない。
そんな馬鹿みたいな理由をでっちあげる。

報われるって、何も自分の希望どおりは報われない。

死んだら跡形もなく消えてる。
叶う事も、報われる事も無い。

何を期待してんだよって。

じゃあ、僕は僕の恨みを呪いとして、地獄行のチケットを突き刺して。
僕が消えれば、嬉しい事も楽しい事も好きな事も無くなるけど、そもそも楽しい事なんて無い。

明日を見ていないのに、何が楽しいのだ。

ひと時の至福と、というあの歌詞の通りが今も生きてる。

だから僕は今は死なない。絶対にそこまで辿り着いてやる。

でも、いつかそれで振り切る日がいつか来ると思う。
いつか悪魔と対決する日が待っている。
俺は悪魔とは手を組まないとは言い切らない。

自分の為ならと、きっといつかあるだろう。

死んだ後に何も残らないなら、死んだ後は君、地獄ですよ。

向井君が、僕がそうなった時に、僕になんて言ってくれるか。

僕は幸せになる為に、幸せになれなかったから、ロックスターに生かされたから、どうする、って。

僕はどうしたいだって。僕は僕に逃避、問う日が来るんだろうな。

・・



・・

追記

ごめん!! 

無理!!

僕は僕がネット上に書いたり更新している理由。

僕と会えなくなった人が、直接、連絡取れなくても、僕が生きている限り、僕が教えているどこかにアクセスすれば僕と繋がれて、今の僕がそこを更新していると言う伝言板(掲示板)的な要素を意識しています。

だから、僕がここで黙ったら、僕が生きているのか死んでいるのかすら分からないでしょ。

だから僕は更新は続けます。ほぼ、毎日noteです。

それにきっと僕がここで黙っていて得られることは

・我慢、忍耐力
・ストレス耐性(慣れ)
・他人からの評価、目

くらい。

我慢や忍耐力はここを更新しなかったからと言って力が付くわけではない。

そもそも日記を辞めたら、今度は書くより楽な、独り言録音をまた延々としてしているだけでしょう。

日記の最大の利点は、すぐに簡単に読み返せることです。
あと僕の場合は、人さまに見られているという事です。

何度か最近も書いているけど、人の悪口や暴言のように捕らえられる表現を僕はするので、そこをどう自分の中で折り合いをつけるか。

僕はやっぱりここでは書き続けます。

ここで書かれて嫌な気がするのは、

僕に対して何かやましい事をしたことがある人だけだと思う。

何も無い人は、僕の事は眼中にも入らない。

僕を知っている人は、話や事情が分からない人は、今までと同じように僕の事を好き勝手ネタにすると思う。
でも、ここで書いたから、書かなかったからと言って、その連中の、くだらない連中のツマラナイ話に巻き込まれない訳では無い。人間なんてそんなものだ。生きていようが死んでいようが好き勝手に言われて差もそれらしくそいつらは自分の事を語ってるんだと思う今、今日、今夜も。

僕がこうして言葉にしている事をよくないと思う人は、
その人はネット上に書くことが出来ないだけです。

本人からすれば
「それくらい出来るわ」
「そんな事しないだけ」
と言うと思います。

でも、ネットで書かないその人(そいつ)はその人(そいつ)で。
どこか別の場所や時に、人の悪口なり適当な噂話をしています。
必ず人間なので、生きていれば、
怒りや悲しいといった感情を吐露しているのでしょう。

それすらも自分の中で黙って抱えて生きているような友達がいるけど、僕が言葉に迷うくらい大変苦労してるんだろうなと思う。そんな顔色や表情をしてる。

僕がそこと比べてどう考えるかは、人の勝手だ。
隣の芝生は青く見えるし、隣の家が燃えていたって我が家には関係ない。
飛び火してこなければ他人の事なんて本当にどうでもいいのだと思う。

本当に今回の事で良く思い知った。

自分も同じ。
これも罪、罠になるなと思いながら。

今日はラーメンが食べたいと思いつつ、家で餃子を三人前作ろうとして、もう何日も面倒で、残りの命を垂れ流している。

・・
・・

僕はアウトプットする場所が無くて壊れかけた経験を3年前までしてきていた(全方向に公開しているのは、このnoteが初めて、ここだけ)。

当然、ここに僕が書く事で、今まで軋轢やすれ違いも起きたけれど、悪いけど僕は確実に成長している。今は意地で大人になれるように勉強も努力もする。

だから、忘れないように、気に入らない事や、腹が立ったこと、怒っている事、僕が経験した話を書き続けて、何か別の問題や事が起きた時に、それを何かのヒントや少しでも解決に繋がればいいと思って書く。

自分語りでカッコつけたい出来るビジネスマンでも、愛とか哲学とか講釈垂れ流して悦に入りたい夏休みでも無いのだ。

・・

全体を見る、それも客観視だと思う。

ただ、全体を見ることは出来ても、自分を含め、俯瞰して自分たちやモノを見る事は別だと思う。
ただ全体を見て把握する事と、自分達の姿を俯瞰するのは違うと僕は思う。

僕らくらいの年齢で仕事場で役職や、責任がある立場になると、全体を確認することはしていると思う。

全体の流れや全体像を見るのは、事実だけを正確に認識把握すれば問題ないと思う。

僕が言っている、自分の姿言動を含めた客観視や俯瞰力というのは、人間の感情、相手の気持ちを考える事。

そこにいる、関わる人たちの感情も込みで、自分の姿や言動を振り返って考えることが必要ではないかと僕は言っている。

でも、人の気持ちなんてものは誰にも解らない。
相手が考えている事を想像するのも不可能に近いので無駄な事だとも思う。

でもそこで出来る事は、相手の事、相手の気持ちを考える事だけだと思う。

思い合う気持ちが大切。

これが大事だと思ってやってきた。それでも何度も間違えてきた。
それでも解らなくて失敗もするし、傷つけた事も、傷つけられる事もある。

どうしてもこの話を他人とすると、人は解っているように言い返してくる。

けど人の気持ちの部分を、自分の考え方で相手の気持ちを考える人が多くて、それでは争いや不和は起きるしかないのに、みんなそこまで至っていないのに、強気な態度で僕には語るよなあって。

みんな、よくそれで自分の事を
「仕事が出来る男(女)」とか言うよ。

人間にはやって良い事と、やってはいけない事があるのは解る?

と、ここまで考えて思いだした事。

僕も、嫌いな人や、仲が良くても、つい、悪い言葉を言ってしまうのですが

僕はそういう時に、
「とはいっても、それも昔の話だもんな」
「もう何年も前の事だから、その人も変わっているかもしれないからな」
と、過去の事、過去のその人、過去のあった事実を評するようにしています。それでも、僕もつい。

つい今のその人に向けて、過去の事を今のその人の事のように踏まえてモノを言ってしまっている。

当時のその人のイメージや、本人から聞いた事実(話)を、
今のその人に当てはめて考えるしまうと、僕も当然間違える。

人間関係で気を付ける事、大切な人を相手にしている時は。
今の、その人を見て、向き合って、考える必要があると思う。

けどね、全員。
僕の事。
10年も20年も前の僕のイメージのままで話し掛けてきているよね。
その事に、みんな、自分で気が付いてる?

僕の事は、それでもいい、って考えでモノ言ってる?

それでいいと解って考えた上ならいい。

僕も同じ扱いをお前にするだけ。
だから人間は、人間社会はそこまで大きくは変わらない。

ほとんど人が、あの頃の僕のイメージで、同じように話しかけ、同じように扱い、変わらずに話をしてきている。

ということは、僕も同じ、昔のお前を今のお前と同一視してモノを言わせてもらう。昔と変わらない、今も一緒、として話し掛ける。
そうやって話を進めても、そこで怒られる筋合いはない。

僕がもし、過去の事を言っているなら、お前らも勝手なイメージで僕を決めつけて話している。そこに気が付けよ、と思う。

・・

人間は成長しない人の事は相手にしないか、縁を切った方が良い。
これは最近、僕の周りで落ちて行った人たちを見ていて明確になった事。

周りから人が居なくなって、話す内容も同じことの繰り返しで変われなくて。結局は孤立して落ちぶれた人。とくにヨレてる人。
例外は無いと思う。

過去のその当時は名前も売れて、人からも評価されて、羨ましがられるような、憧れられる、好かれるような人でも。
年齢やライフステージが変わっていく周りの中で、その人だけがその時の考え方や感覚のままで歳をとっている人は、周りから完全に人が居なくなって、誰からも相手にされなくなる。

本人はそれすら分からないくらいに。そうなっている。

これは自戒のようなものかもしれないし、これを読んで自分に置き換えて考えられない、痛い目を見ても何も変われずに自分流を貫く美学を掲げる人たちと共に。

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